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こぶし二個分のとなり

コンクール落ち作品
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第209回集英社Cobalt短編小説新人賞応募作品


 ごうごうと鳴く換気扇に向けて灰色の煙を吐き、飲み込ませていく。揺らめきながら吸い込まれていく煙をぼうっと眺めながら「なんだか腹を空かせたペットに餌をやっているみたいだ」なんて下らないことを想像して、私はまた煙を吐いた。
 今は灰皿置きにされているコンロは、油汚れもなく綺麗に磨かれている。日々の掃除は私の仕事であり、私は料理をしない。
 しかし。それ故に。
 日々の食事を用意してくれる彼女に感謝の気持ちを込めて、キッチンは特に念を入れて掃除をすることにしている。

 私に煙草を教えたのは、大学の頃の先輩だった。
 初めて吸ったのは、確か大学三年の頃のゼミの歓迎会だ。がやがやと盛り上がっている居酒屋のテーブル席で一人だけ、プロレス中継を流しているテレビの方を見ながら煙草を吸っている彼女を、私は無意識に見つめていた。私の視線に気付き、先輩は「おひとつどう?」と、私に細くて綺麗な煙草を一本差し出してくれた。断ろうかと思ったが、特に断る理由が見つからず、また酒の席でソフトドリンクばかり飲んでいることに少々の居心地の悪さを感じてもいたので、結局私はそのご厚意に甘えることにした。
 初めての煙草は、甘いような、苦いような、なんだかよくわからない味だった。

 ふう。と、灰色の煙をまた吐き出す。
「煙、肺まで行ってたら、透明になるんだけどね」
 煙草を吸い始めて間もない頃。大学の喫煙室、となり同士。
 私の吐き出した煙を見て、先輩はそんなことを言った。そして、私の胸ポケットから百円ライターを取り上げ、煙草に火をつけ、深く吸う。先輩の口から、透明な煙が吐き出される。先輩は私に向き直り、まるでからかうように笑いかける。私は、彼女から目を離すことができなかった。
 当時の私は、なぜだかその一件が無性に悔しくて、その日から煙を肺まで届ける練習をして、たびたびむせ返っていた。

 先輩は最近、煙草をやめたらしい。
 数日前、SNSに、禁煙宣言とともに妊娠の報告が投稿されていた。華やかな写真に彩られた先輩のSNSは、あからさまなまでに、普通の幸せな女性、といった感じだった。私の知らない男と並んで写真に写った先輩は、私の知らない笑顔をしていた。

 先輩は、なんというか飄々としていて、つかみどころのない人だった。
 赤毛に染められたショートの髪は――先輩は、「自分で染めた」と言っていた――申し訳程度にセットされ、服装もテキトーなTシャツにジーンズ。そのくせ、赤いフレームの眼鏡だけは妙にこだわりがあるらしく、聞いたことのないブランドの物を愛用していた。
 ゼミにはたまにふらっと来る程度。教授も他の先輩方も、そんな先輩の態度を気に掛ける様子もなく、自分の研究に勤しんでいた。きっと彼らにとっては、もう慣れっこだったのだろう。
 当時先輩は大学院の二年生で、そうなると大学は卒業していることになる。が、あれでどうして大学が卒業できたのか私には全くもってわからなかった(今でもわかっていない)。なんともテキトーな人だ、と常々感じていたが、しかし、先輩は時折私の研究を覗いては驚くほど鋭い指摘をし、その度に私を驚かせた。そして、あっけにとられている私に彼女は白い歯を見せてにかっと笑うのだ。
 どうだ、とでも言うように。

 先輩とは、今はもう覚えていないくらい下らないきっかけで付き合って、今でも覚えているくらい下らないきっかけで別れた。
 別れたことに未練はない。元々、先のない付き合いだった。大きな衝突があったわけじゃない。その代わり、遅かれ早かれ別れるのだろう、という予感が、私たち二人の間にあった。
 それでも。
 私は先輩の投稿に「いいね!」を付けていない。

「シャワー。上がったから、使っていいよ」
 バスタオルでぐしゃぐしゃと乱暴に髪を拭きながら、彼女がキッチンに入ってきた。私はその様子を見て、少々苦い顔をする。
 彼女の髪は、綺麗だ。肩まで伸ばした艶めく黒髪は一本一本が真っすぐしなやかで、指を通すと引っかかりなどまるでなくさらりと抜けていく。月並みな表現だが、まるで「絹のような髪」というやつだ。
 私はもう何度も彼女に髪のケアはちゃんとするようにと言っているのだけれど、彼女はそう言った細々したことは――私からすれば、全然「細々したこと」ではないのだが――肌に合わないらしく、いつしか私も言うのをやめた。そうして、今なおその美しさを保っている彼女の髪が、恋人の私にとっては誇らしく、かつてヘアスタイリストを目指した私にとっては少しやるせない。

 私は、子供のころから酷いくせっ毛だ。小学生の頃なんかは、そのせいで周りから「アフロ」だの「トイプードル」だのとからかわれていた。今思い返してみればいかにも子供じみた可愛い悪口だが、当時の私にとっては深刻そのものだった。いっそ坊主になろうかと、母に少年野球チームに入れてくれとお願いして笑われたこともあった。
 中学に上がって、近所の温泉施設に併設されている床屋から、駅前の美容室に行くようになった。始めて足を踏み入れたその場所は、どこか落ち着かない空気に満ちているというか、場違いな気持ちを私に抱かせた。セットチェアに通され、渡されたヘアカタログをパラパラと読んだが、私にはよくわからなかったので、ただ一言「短くしてください」と伝えた。
 ヘアスタイリストの「終わりましたよ」の声がかかるまで、私はまともに鏡を見ることができなかった。カットクロスを被せられると、嫌でも自分のもじゃもじゃの髪の毛を見なければならないのが苦痛だった。それに、髪を切ったところで、どうせこの頭は変わらないし、時間が経てばまた髪は伸びてくるし、そうしたらまたここに来て、この頭と向き合わなければならない。そう考えると、憂鬱だった。
 だから私は、鏡を見て驚いた。
 違った。いつもの床屋の「ただ短くするだけ」の髪型とは何かが違った。それが、切り方によるものか、切った後のスタイリングによるものか、私には判別がつかなかったが、ただ、確かなのは、その日初めて、私は鏡に映る私の姿を真っすぐに見ることができた、ということだ。
「頭の形、綺麗だからさ、こういう髪型、似合うと思って。気に入った?」
 まるで魔法のようだと思った。

 その日から。私はヘアスタイリストに憧れるようになった。いつか私も、かつての私のように自分の容姿に悩む人を救えるような「魔法使い」になりたいと思った。高校に入学するとすぐにアルバイトを始め、お金を貯めてハサミやブラシ、教本や雑誌を買い揃えた。弟を実験台に髪を切り、その結果めちゃくちゃな髪型にしてしまい、母にこっぴどく叱られたこともあった。

 高校三年にもなると、美容師専門学校の入学金や学費の目が飛び出るような額を知り、そんな憧れも現実の前に散っていった。結局私は、一浪した末に県内の国立大学に通い、留年はすることなく卒業し、無事、市内勤務の普通のOLになった。

 彼女は私の複雑な胸中などはつゆ知らず、「あちーあちー」だなんてベタな台詞を吐きながら、冷蔵庫の中からひょいと缶チューハイを取り出し、私のとなりにちょこんと並んだ。
 カシュッと缶の開く小気味いい音が鳴る。
「っかー、これだな」
 風呂上りの酒にふさわしいリアクションを見せつける彼女だったが、持っているのはアルコール3%のジュースのようなチューハイだ(ちなみに味は桃)。いつもながらなんとも格好がつかないなあ、と思いながら彼女を見るが、彼女の方は毎度心から酒を楽しんでいるという風な――そして、実際にそうなのだろう――飲みっぷりを披露してくれるので、きっとこのままで良いのだろう。
 まあそもそも、私は酒を飲めない体質なので、風呂上がりの酒の作法にとやかく言える立場ではないのだけれど(というか、どんな立場なら言えるんだ、それは)。

 いつの間にか換気扇のやかましい声は遠くに消え、私と彼女の間には、静寂が浮遊していた。私はただ黙って煙草を吸っているし、彼女もただ黙ってお酒を飲んでいる。こぶし二個分離れたところに、確かな体温と息遣いを感じる。満たされた気持ちの中に、ほんのちょっぴりの孤独を感じる。
私はこの時間を、悪くないと思っている。

「ねえ」
 不意に、彼女が話しかけてきた。
「ん?」
 私は彼女を横目で見ながら、答えた。
「それさ、一口ちょうだい?」
 彼女は、私が口に咥えている煙草を指さして、そう言った。
 少なくとも私が知る限りで、彼女は煙草を吸ったことなど一度もなかったはずだ。一体どういう風の吹き回しなのか、と思ったが、しかし、私が初めて煙草を吸った時も別段大きな決意や激しい変化があったわけではなく、ただなんとなく勧められたからだったため、きっと彼女も、なんの気なしに吸ってみたくなったのだろう、と思い直す。
 まあ、別に一口吸われるくらいで何を言うこともない。
 それに。と、内心浮かんだ悪い考えに、私は笑みをかみ殺した。
 慣れない喫煙でむせる彼女の姿を――まるでいつかの私のように――見てやりたいという、小さないたずら心もあった。
 私は煙草を口から離し、彼女に差し出した。
「ありがと」
 彼女は微笑みながらそう言うと、煙草には目もくれず、私の手を支えに小さく背伸びをした。つい先ほどまで紙のフィルターに触れていた唇に、柔らかく暖かいものが押し当てられる。
 甘いような、苦いような、なんだかよくわからない味がした。

 数秒の間があって、彼女は私からまたこぶし二個分離れ、チューハイを一口飲んた。灰が床に落ちそうだったので、私はあわてて煙草を灰皿まで持っていった。そうして彼女の方を見ると、彼女は白い歯を見せてにかっと笑った。
 どうだ、とでも言うように。

「煙草の匂いがした」
 彼女は私にそう言った。
「最後のキスじゃあるまいし」
 私の言葉は、吐き出した灰色の煙とともに換気扇に飲まれていった。

 シャワーを浴び終え、浴室のドアを開ける。タオル棚からバスタオルを取り、まだ水の滴る身体にまとわせる。
 遠くに換気扇の動く音が聞こえる。きっとまた、煙草でも吸っているのだろう。まさか料理をしているだなんてことは……いや、それはあるまい。
 浴室から漏れ出た蒸気で曇った鏡を、手で拭う。肩まで伸びた髪は、正直な話、私には少しうっとうしく感じる。夏らしくさっぱりと切って欲しいのだが、そんなことを言おうものなら、間違いなく「せっかくの綺麗な髪がもったいない!」とお叱りを受けるだろう(というか実際、言われたことがある)。
 お日さまにしっかりあててふかふかにしたバスタオルの柔らかさと香りを堪能しながら、私は髪を拭く。脱衣所に水しぶきが飛ぶ。髪が長いと乾くまでに時間がかかって不便だ。でも、こんな風に伸びた髪をタオルでがしがしと拭くのは嫌いじゃない。昔、実家で飼っていたラブラドールレトリバーのテリー(オス。享年十二歳。大往生だった)を風呂に入れた時のことを思い出す。

「せめてドライヤーくらい使いなよ」
 と、いつだったか小言を言われたことがある。
 私はドライヤーが苦手だ。熱い風が勢いよく吹き出しているドライヤーの、なんというか「得体の知れない大きなエネルギーの塊」感が、なんとなく恐ろしいのだ。
 そのことを伝えてみると、煙草の煙が変なところに入ったのか、むせながら大笑いされた。
「いや、火が出るわけじゃないんだから」
 そういうことを言っているんじゃない。理屈じゃないのだ。口を尖らせながらさんざ言葉を尽くして抗議をし、結局最後には私の好きにしていいことになったが、たぶんアレはわかってない。不承不承、という文字が顔に書いてあった。
 似たような理由で、ヘアアイロンもダメだ。あんな高熱の棒が顔のすぐ近くで自分の髪の毛を巻き込んでいるなんて、考えるだけで恐ろしい(そういえば、これも盛大に笑われたな……)。
 ちなみに、うちのコンロはチャーハンもお店みたいにパラパラに作れる高火力。
 理屈じゃないのだ。

 頬に、まだ乾ききっていない髪の毛がぺたりとくっついている。私はそれを払いのけ、鏡を見る。やっぱり、長い髪はうっとうしくて、あまり好きじゃない。
 でも。
 彼女が私の髪を愛おしそうに撫で、キスをしてくれるのは、たまらなく好きだ。

 バスタオルを肩にかけ、キッチンに向かう。果たして彼女は換気扇の下で煙草を吸っている真っ最中だった。
 彼女はスマホをぼんやり眺めながら、もくもくと煙を吐き出している。私には気付いていないようだった。
 静かに煙草を吸っている彼女を見て、私はたまらなく可愛いと思う。丸くて小さい頭と、やんちゃに跳ねたショートのくせっ毛(彼女曰く「この時期は、長いと爆発する」らしい……見てみたい)。細くて白い首から目線を下げると、Ⅴネックのシャツから鎖骨が覗いている。そしてその下に、程よい大きさの、形のいいおっぱい。すらっと伸びた手足。
 これが漫画だったら、ゴクリと生唾を飲んでいるところだ。こんな風に彼女を見る度に、私は案外スケベなんだな、と思う。
「シャワー。上がったから、使っていいよ」
 覗き見の罪悪感と気恥ずかしさとをごまかしながら私は彼女に声をかけ、冷蔵庫を開けた。中から缶チューハイを取り出す。お気に入りの、桃のフレーバーのお酒。景気よくタブを起こし、缶を傾ける。ほろ甘い微炭酸が、ぐいっと喉を通り抜ける。火照った身体に、冷えたお酒が爽やかに染み渡っていく。
「っかー、これだな」
 となりから、やれやれといった風に笑う声が聴こえた。

 私が初めてお酒を飲んだのは、高校に通っていた頃だったと思う。もしかしたら、私が覚えていないだけで小さい頃に間違ってお父さんのお酒を飲んでしまったり、新年の集まりで飲んだくれの親戚連中に飲まされたりしたかもしれないけれど、覚えていないものはカウントのしようがない。
 さておき。
 私が初めてお酒を飲んだのは、高校に通っていた頃だった。と、しておく。
 当時私は三年生で、一個下の後輩と付き合っていた。女だらけの美術部の中、後輩は唯一の男子部員で、なんというか、マジメな奴だった。私を含め、部員のほとんどは(というか、その後輩以外は)、ただ放課後ダベるために美術室に入り浸っていた。顧問の先生も、良く言えば放任主義というか、悪く言えば職務怠慢といった感じで、部活にもほとんど顔を出さなかった。そんな中、後輩はただ黙々と絵を描き続け、二年の春に油絵で小さな賞を取った。
 後輩は、入部したての頃からなぜか私になついており、たびたび絵の感想を求めてきた。私は絵のことなんか全然わからなかったので、ただ「良いんじゃない」とか、「綺麗だと思う」とか、テキトーに答えていた。しかし不思議なもので、何度も感想を返していくうちに、だんだん私にも絵のことがわかってきたような、本当に心から彼の絵を綺麗だと思えてきたような、そんな気になっていった。そうして、私が今まで見た彼の絵の中で一番綺麗だと思った一枚(それは、彼が賞を取った絵ではなかったが)を見せてくれた日、私は彼に「付き合おっか」と言い――不意に出た一言だった。言った私の方が驚いてしまうくらいの――彼はただ黙ってうなずき、私たちは付き合うことになった。

「一緒にお酒を飲もう」と、彼が私に言ってきたときは、だから、とても驚いた。まさか彼から、そんなお誘いを受けるだなんて、夢にも思わなかった。そしてそれは、たまらなく魅力的なお誘いだと思った。
 彼の部屋で一緒にこっそりお酒を飲んでいると、なんだかとても悪いことをしているようで、でも飲んでいるのがアルコール3%のジュースのようなチューハイなのがどうにもおかしくって、私と彼はくすくす笑いながら、味もよくわからないまま一本の缶チューハイを長い時間をかけて飲み干した。
その日、私たちは初めてのキスと、セックスをした。
 私たちはそれからもたびたび隠れてお酒を飲んでいたが、お酒の味、というか、美味しさは、よくわかっていなかった。ただ「二人で一緒にお酒を飲む」という、それ自体が、どこか特別で、素敵なことだと思えたのだ。
 私は、いまだにお酒の美味しさみたいなものが、よくわかっていないし、これからも、それがわかることはないんじゃないか、と思っている。
 結局、私が短大に行ってからは、彼とは疎遠になり別れてしまい、その後も私は何人かの男の人と付き合った。

 私は、彼女のように女の人しか愛せないわけじゃない。が、私は別に男の人を積極的に好きだと思うわけでもなく――現に私は、彼女と付き合っている――私の中の「好き」はひどく曖昧だ。たまに、私はいわゆる「節操がない」人間なのでは、と危機感を抱くこともあったりする。それでも、私はいつだって、私の中の「好き」に、言葉にはならない確信めいたものを感じている。きっとこれも、理屈じゃないのだと思う。
 あれから十年ほど歳を重ね、あの頃一緒になって部室でダベっていた友達は結婚したり、母親になったりして、お母さんからは「誰か、良い人いないの?」なんてちょくちょく言われるようになった。私が女の人と付き合っていることを知ったら、お母さんはどんな顔をするだろうか。
 この国で、私は彼女と結婚することができない。私は、彼女と一緒にいる今この場所、今この空気が好きで、結婚というカタチに、あまり意味はないんじゃないかって思っている。今、こぶし二個分離れたとなりで彼女が煙草を吸っていて、私がちびちびと弱いお酒を飲んでいるこの瞬間に、私の心が満たされていることを確かに感じる。それでいいし、それがずっと続いたならば、どんなに素敵で、幸せなことだろうと思う。
 それなのに。
 私は時々、どうしようもなく寂しくなる。

 ふと、彼女の方を見てみる。私がこんなにアンニュイな気持ちになっているというのに、素知らぬ顔でスマホなんぞを弄りながら煙草をふかしている彼女に、私はちょっとムッとする。横にこんなに可愛い恋人がいるというのに、その唇を細く巻かれた紙なんぞに独占させているとは、一体どういう了見なのか。
「ねえ」
 と一言、彼女に声をかける。
「ん?」
 彼女は私を横目で見ながら、答えた。
「それさ、一口ちょうだい?」
 私は煙草を咥えているその唇を指さして、そう言った。
 彼女は小さくうなずいて、煙草を口から離し、私の方に差し出す。私は、ああ、そりゃそうなるか、と少し笑ってしまった。
「ありがと」
 私は彼女の手を支えにして、唇にキスをした。
 もう何度もしたキスなのに、初めてのキスのような、特別な感触がして、私は不思議に思った。

 ここ数日、彼女の煙草の本数が増えた。理由はたぶん、彼女の先輩が――彼女が前に付き合っていた人が、煙草をやめたからだ。一緒に生活していれば、スマホで何を見ているかなんて意識しなくても目に付くし、そもそも私たちはお互いそういうのを隠していない。彼女は私が男の人と付き合っていたことを知っているし、私は彼女がその先輩としか付き合った経験がないことを知っている。
 嫉妬はない。わけではない。
 でも、私だって、もう子供じゃないんだから、ことさら怒ったり、問い詰めたりだとかはしない。口では「昔の話」だなんて言いながら、先輩のことをしっかり気にしてる彼女のことを、可愛いとさえ思ってしまう……いや、これは少し言い過ぎ。本当は、もうちょっとくらい構ってくれてもいいのにって思っている。
 それでも。
 私はあの日、友達に連れられて人生で初めて足を踏み入れたバーのカウンター席で、一人静かに煙草をふかしている彼女のその姿に惚れてしまったのだ。
 ままならないなあ。なんて、彼女の唇の柔らかさを感じながら、思ってしまう。本当に、理屈じゃない。

 キスをする時、煙草の煙が変なところに入ってしまいむせそうになったので、私はあわててチューハイを飲んでごまかした。そうして彼女の方に向き直り――彼女は何食わぬ顔で煙草の灰を落としていた――渾身の笑顔をお見舞いしてやった。

「煙草の匂いがした」
 私は彼女にそう言った。
「最後のキスじゃあるまいし」
 私が私の言葉に混ぜたちょっとの――たぶん、3%くらい――嫌味に、たぶん彼女は気付いていない。

(了)


以下、あとがき

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