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ぼくにとっての「知性」はね。

どんな人に「知性」を感じるだろうか。

ぼくの中では知性とかっこよさが隣接している。「こういう人になりたい!」「かっこいいなぁ」と思い、それは何でかと聞かれたら「知性を感じるから」と答える。ただ、知性とは何かと聞かれたら、なんと答えるのがいいだろう。

おそらくぼくは書評を読んだり、文芸批評や映画批評、美術批評を読むことが人よりも多い。単に好きなだけなのだが5冊に1冊くらいの割合でその類いの本を選ぶ。批評で扱われる作品を知らなくても、批評それ自体を面白がることも少なくない。では、一体ぼくは、批評のどこに惹かれているのだろうか。

一言でいってしまえば、批評文は、他の読み物よりも鮮明に「知性」を感じることができるのだ。読んですぐに「かっこいい!」「頭いいなぁ」「知性があるなぁ」と思える。そして、その場合にぼくが知性と呼んでいるものを、現段階では、大きく2つに分けることができる気がしている。それは、①自分自身の価値基準を持ち、物事を判断できること、②ものごとの面白がり方が上手いこと、である。

①自分自身の価値基準を持ち、物事を判断できる人に、ぼくはなりたい。周りをキョロキョロみて場に応じた判断を下していくのではオリジナリティがないし、ある程度なら誰にでもできてしまう。なにより、かっこよくない。そうではなく、どんな話題がやってきても、自分のフォームで打ち返している人の方が、独自性が高いと感じることが多い。批評の場合は、特にそうだ。そしてなにより、そっの方がかっこいい。

このことが、目の前のものを単に個人の好き嫌いで判断していくことと何が違うのかと問われれば、大きくは違わないのだと思う。たしかに、最初は好き嫌いでしか判断できない。しかしその判断を100回200回と積み重ねていくと、なぜ好きなのか、なぜ嫌いなのかという判断基準が次第に言語化されていき、基準自体も抽象的になる。そして抽象的になればなるほど、どんな具体的な事象にも当てはめられるようになっていく。結果的に、あらゆることを自分の価値基準にしたがって判断できるようになり、その人固有の意見が出てくるのだと思う。これが、ひとつ目の知性の内実である。

②あらゆることをもっと面白がれるといいな、とぼくは思う。こう言ったときのぼくの頭には、1人の人物の顔が浮かんでいる。ものごとを面白がる天才である。その人の名を、みうらじゅんという。

得意のダジャレ・言葉遊びを筆頭に、勝手気ままに物事を解釈し、一所懸命にふざけているさまには憧れないわけにはいかない。みうらじゅんの知性は、対談のときによく見られる。決して博覧強記なわけではない。しかし、同時代を生きたどんな知の巨人を前にしても、引けをとらない面白さ。ユーモアといったらあまりに陳腐だが、みうらじゅんをしてみれば、この世に面白がれないものなんてないのではないかと思えてくるのである。興味がある人は、ぜひ宮藤官九郎やリリー・フランキーとの対談集、山田五郎と対談動画を見てほしい。こんなに知性を感じられる人は、そういない。

というのが、ぼくの中での知性であった。ぼくは日々、自分の価値基準をつくることと、ものごとの面白がり方に磨きをかけようと思って生きている。というか、みうらじゅんになりたいだけなのかもしれない。

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