春と夏のあわい
この時節、田んぼには背丈の短い稲がそよぐ。
水鏡に青空が映る。
夜になれば蛙の声がけろけろと水面を転がるように響いて来る。
満月の夜なら水田は光り輝く。
常磐線なんてのは緑の中を疾走するのさ。
たとえば春三月、実家を出て上京した者が帰省するゴールデンウィーク。
車窓にはそんな田んぼがどこまでもどこまでも続く。
懐かしいなあ。
実家がなくなった今、鬱陶しい心の奥から郷愁がじわじわと前面に出る隙を伺っている。
実家そのものではない。
風景が懐かしいのだ。
空気の香りや、かすかな音も。
初夏ともなれば眠れず迎えた夜明け前、一番鶏が鳴くのだよ。
コケコッコーと本当に鬨の声を上げるのだよ。
そして遠くの駅でがちゃーん、ごとごとと始発電車が動き始める音まで聞こえる。
汽笛だって鳴らすよ。
ぽーーーっ!
風あくまでもそよそよと。
けれど私は不眠症。
もっと前の健やかに眠れた頃は、初夏の朝風に胸躍らせたものさ。
大人になったら何になる?
って、わくわくしていた。
でも今や何ものにもなっていない私。
風は同じ爽やかさで吹く。
いずこも同じ初夏の風
いや、そういう話ではない。
実家のあったあの場所を旅館にすればよかったな。
下宿屋のように普通の食事を出す。特別なご馳走なんか出さないよ。
ご飯に味噌汁お漬物。鯵の開きに里芋と厚揚げの煮付け。
納豆、蒲鉾、生卵なんかもあるよ。
デザートは単なるりんご。
食後はほうじ茶。
コーヒーは淹れてあるから勝手にポットから注いでください。
布団の上げ下げもセルフでお願いします。
一日中客室でごろごろしていても、読書や動画に興じても構いません。
レンタサイクルも置いておこう。
近所をサイクリングしてもかまわない。
田畑しかないけどスーパーぐらいはあるよ。
(コンビニじゃないから夜は閉まってる)
観光地まではサイクリングでは厳しいな。
バスで一時間以上かかるから。
ともかく勝手に過ごしてください。
下宿屋というより山小屋に似ているかな。山はないけど。
もしくは湯治の宿。温泉はないけど。
私が経営したいのではない。
そういう宿があれば行きたいという話だよ。
(そもそも私に実家の土地をどうこうする権利はないし)
妄想が泡のごとく湧いては消える朝である。
初夏の風が吹くせいだ。
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