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0歳からの教育と人間関係のメソッド - 【識字率世界一:その5】

江戸時代の0歳教育

江戸時代の子育ては「胎教」から始まり、さらに乳幼児期の教育が強く推奨されているのがスタンダードで、いわゆる0歳教育がはるか昔から行われていた事になります。

幼児教育の要点を纏めた『比売鑑(ひめかがみ)』という書物の中に以下の様な記述があります。

子育ての失敗の多くは、幼児に接する父母・侍女・乳母などの悪影響によって幼児の本性が損なわれた結果であり、幼児教育においては『表裏』『臆病』『傲慢』の三悪を排除することが重要になる。

すなわち、

子どもを泣きやませようと思って「○○をあげよう」と、その場限りの嘘をつけば『裏表』のもとになる。
また、子どもが言うことを聞かないからと、恐ろしい話をして脅せば『臆病』のもとになる。
さらに、子どもが気に入らないからと、親が道理をまげて知らぬ顔をすれば『傲慢』のもととなる。

この様な教育指針が纏められていました。

また、『比売鑑』によれば、子育ての本質は「誠」の一字に尽きるとされており、「誠」とは「人の世に生まれて未だ私欲に染まらぬ前の、ひたすらに素直な心」であり、この様な「生まれながらの気質の性」をいかに損なわずに育むかが子育ての目標であり、親の役割である、とされていました。


子どもに嘘をつかない

江戸時代の数々の教育書には「子どもを欺くな」とする主張が度々登場します。

1710年に書かれた『和俗童子訓』では、

嘘をつかないということは心や言葉に嘘をつかないこと、約束を厳守すること、そして何より大切なのは親が子どもに嘘をつかないこと

と記述されています。

また、1829年に書かれた『自修編』には、

幼児のときは人の言葉を聞いて決して忘れないものだから、どんなにささいなことでも子どもに嘘をついてはならない

と記述されていました。


子どもの周りの人間関係

江戸時代の教育書にはまた、子どもの教育には「良い人を近づける」ということも多く記述されています。

一家の後継者を育成するという意味で、子育てがすべての人にとって重要だったのは言うまでも無いですが、武家、とりわけ為政者の場合、然るべき後継者を選び、適任の近習をつけて教育することは一大事でした。

1622年に書かれた「掟書之事」では「守り役や側近の人選には、その人柄を入念に何度も検討せよ」書かれています。また家康に仕えた本多正信という人物が書いたとされる「本佐録」には、

人間の知恵は上・中・下に分かれるが、上智と下愚は稀で、大半が中の智恵者である。
この中の智恵者は、教育によって上智にも下愚にも移るので、後継者は嫡子(後継)に限らず、庶子(嫡子以外の子)も含めて、その智恵をよく吟味せよ。

とあり、さらに世継ぎには早くから「律儀にして智恵のある人、また正路にして軽薄いわざる者」をつけ、近習には「正直にして智恵・才覚ある者」を厳選せよ、と説いていました。


乳母の条件

同様に乳母についての心得も多く、例えば『比売鑑』では、「心ばえ広く寛けく、愛憐れみ従いて、穏やかに、安らかに、恭しく、畏れありて、謹み深く、言葉少なき者」を理想的な乳母として説いていました。

この時代、子どもにとっての乳母は実の母親以上に母親らしい存在で、実母には近寄りがたくても、乳母には甘えたり気安く接することができました。乳母はその子の生涯を見守り、成長後も色々な人生相談に応じる存在でした。

越後の国に生まれた武士の娘である杉本鉞子という人が著した『武士の娘』の中で、彼女の乳母である「いし」の思い出を以下の様に語っています。

少女時代の鉞子は「エツ坊」と呼ばれていたが、彼女は生まれながらの縮れ毛のために幼い頃からつらい思いをしてきた。とくに、七つの祝いの席で受けた辱めは生涯忘れられない出来事だった。
「おエツさんに立派な着物を着せてみても、ほんとにむだなことですね、かえって縮れ毛が眼につくばかりですもの」と叔母の一人が語った言葉を耳にした鉞子は、子ども心にも大きなショックを受け、「晴着の陰に消え入りたい」気持ちで一杯だったが、祝議の場では身動き一つせずに耐えた。そして、その一部始終をいしも見ていた。
その晩、いしは豊かな自分の髪の毛をばっさり切って、日頃信仰していた神社に奉納し、「あの子の縮れ毛と取り替え給え!」と祈願した。
鉞子はこの思い出を披瀝しつつ「何という親切な心根でございましょう!今もなお、いしの切ない犠牲の心に私は深い感謝を献げております」と綴っている。
また、鉞子はいしのおとぎ話が大好きだった。毎晩、温かい寝床の中に丸まって、笑い転げたり途中で口を挟んだり、「もう一つ」とおねだりをしながら過ごし、やがて時が来れば行灯の灯芯を一本に細めて「ほのかにやわらかい光につつまれた」なかで眠りについた。

この逸話は、「親三分に乳母七分」といわれる子どもの人格形成における乳母の存在の大きさを示しているように思えます。


有益な友の定義

友の善悪については、武士の家訓や教訓などによく記述が見られます。例えば、元禄ごろに書かれた『諸礼教訓鏡』の「友の善悪のうた」には

良き友は智恵有る人にくすし(薬師)なり、さて其の上は物くるる(くれる)人

という道歌がありますが、これは『徒然草』第117段の話をもとに詠んだもので、兼好法師は「医者」「智者」「福者」の三者を「益友」と考えました。『論語』は直言・誠実・博学の友を「益者三友」、不正直・不誠実・巧言の友を「損者三友」として説いていました。

さらに江戸中期の往来物作家、禿箒子(とくそうし)が1776年に著した『道中往来』には「智有る友」「古きを知る友」「富有る物」「道有る者」を「有益な四友」としています。

他にも友に関する格言や諺は数多くあり、友を厳選する『択友』は重要な処世訓だった様です。

『和俗童子訓』では、

一日小人(徳や器量のない人)と交わるより、一年間書物を読まないほうがましである。

と述べており、さらに

公儀の法度を恐れず、わが家業を勤めない無頼漢(ならず者)は父兄の教えに従わず、必ず酒色・婬楽・博奕を好むものであり、子どもがこのような人間と交わると、親の戒めも世間の批判も聞かなくなり、一生を台無しにする。

と警告していました。


まとめ

まず、前回の記事と同様、体系だった教育論に驚く場面が多々あります。『表裏』『臆病』『傲慢』を幼児教育の三悪と決め切っていて、且つ見ていて納得感があるところが単純に凄いなと思わされます。

リアルな実体験を基に書かれているからこその説得力だとは思うのですが、現代に活かすとするならば、現場実務を多く経験している人に直接アウトプットしてもらう方法や仕組みを構築する必要がありそうです。

また、完全な私の印象なのですが、この時代は『集積知』的なイメージが強いのかなと感じており、例えばAさんが教育論をアウトプットとして纏めたら、BさんはそのAさんの教育論に上乗せして自分のアウトプットを出すというものです。

現代だとパクリと言われそうですが、この時代は人の理論をパクリながら一つ新たな知識を上乗せしていく、ということが自然に行われており、それが故にこの様な高いレベルのアウトプットに至っているのではないかなと感じました。

つまりコピーライト的発想を排除しながら集積知を積み上げていける様なプラットフォームがあるとアウトプットの質が自然と向上するのかもしれません。

本日はこの辺で。


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