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【識字率世界一:その2】江戸の教育方針

今回は江戸の教育制度、第二弾です。

第一弾は以下の記事になります。


寺子屋での教育

当時、庶民の子供の多くが寺子屋(手習所)に通っており、6〜7歳で入学するとまずは「いろは」の読み方と書き方、数字の習得から始めていたそうです。

特に習字には力が入れられており「手習草子」という半紙を綴じた練習帖が真っ黒になるまで繰り返し「いろは」を書いたといわれており、まずは国語の基礎知識をしっかり身につけさせてから、さらに歴史、道徳などへと学習内容を広げていったそうです。

また、江戸時代は人間教育としての「実学」を重んじ、単に書物から知識を吸収するだけでなく「聞く、話す、考える」という生活の場での応用にも力を入れていたそうです。

以下の例は特に商人の子弟に向けられたものですが、江戸っ子の子育てを表す言葉として「三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理」というのがありました。

・3歳までに、目には見えない心の糸を張り巡らし、心と手足を動かすことを体感させる。頭・体・心の三つから人間が成り立っていることを体得させる。
・6歳の寺子屋入学までに善悪の区別をし、相手を思いやる身のこなしを体得させる。
・9歳にはどんな人にもきちんと挨拶ができるように、また気の利いた「世辞」が言えるように訓練する。
・12歳には、商いに必要な請求書、納品書などを書けるようにする。
・15歳には森羅万象、自然の原理を体で理解し、大人として一人前になる。

江戸時代にはこうした年代ごとの教育方針が確立しており、寺子屋においても挨拶の仕方や言葉遣いなど、人として大きくなるための実践指導が行われていたそうです。


専門性を高めるマンツーマン授業

寺子屋の教育は個別指導、つまりマンツーマンシステムが基本でした。生徒全員が同じ教科書を広げて先生の話を聞くというやり方ではなく、一人一人に適した教科書を用い、個別に適した課題が与えられていたそうです。

当時は7,000種もの教科書があったので商人の子供なら『商売往来』、農民の子供なら『百姓往来』、大工の子供なら『番匠往来』というようにその子供の将来を見据えて最も適した内容の教材が選ばれました。そのため、子供たちは小さいうちから専門的な知識を身に着けることができました。

授業のやり方ですが、一般的には師匠の机の周りに子供たちが机を並べて座り、それぞれ与えられた課題に合わせて学習を進める方式でした。師匠には誰でもなれましたが、多かったのは商家の隠居や諸藩士、浪人、僧侶、医者などだったようです。質問があれば子供は師匠の所にいって指導を仰ぎ、出来上がったらまたそれを師匠の所に持っていって見てもらうという形で学習を進めていくのが一般的だったようです。


儒教という『知識の互換性』

教育機関として武家の子弟が通った「藩校」がありましたが、藩校は文字通り藩が設立・運営した教育機関で、有能なリーダーの育成を目的にほぼ全ての藩に作られました。全国で200以上の藩校が生まれたそうです。

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会津藩の日新館などは特に有名ですが、この藩校の場合は八千坪もの広大な敷地があり、その中に150坪の校舎や武道場の他、天文台や日本初のプールのような設備まであったそうです。

徳川家康は人々を幸せにする国づくりを考え、リーダーの育成に必要な学問として『儒教』を重んじました。孔子が説いた政治・道徳に関する教えを日本の学問体系に取り入れ、藩校では儒教の経典である「四書五経」を全員が学びました。

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四書とは「論語」「大学」「中庸「孟子」、五経とは「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」のことで、藩校の授業ではこれらの素読と習字が繰り返し行われたそうです。

江戸時代には寺子屋、藩校の他に身分や性別に関わらず生徒を受け入れる「私塾」もありました。私塾は民間の有識者によって開設された学校で、教育内容は国学や洋学をはじめ、師匠によって様々だったそうです。武士の子弟は藩校に通いながら、更に幅広い知識を習得するために私塾で学ぶことができましたし、庶民もまた私塾でより高度な教育を受けることができました。

私塾で最も有名なものの一つに吉田松陰が率いた松下村塾が挙げられるでしょう。この塾からは伊東博文や高杉晋作をはじめ幕末維新に活躍した優れた人材が輩出されていますが、実は松陰が主宰してからわずが3年で松下村塾は廃止されています。

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それほどの短期間でありながら、多くの門下生が明治維新を成し遂げられた理由の一つは「知識の共通基盤」があったのではないかと推察しています。つまり、同じ『儒教』という共通の知識ベースがあったので、他の藩の武士同士が初めて顔を合わせてもちょっと話をしただけでお互いを理解することができ、すぐに意見を戦わせることができたのでしょう。また共通の知識基盤を元に新しい知識や考えを吸収し、自分なりの意見を上乗せしながら述べることもできたはずです。更に松下村塾の場合は講義が「生徒参加型」で行われ、吉田松陰と門下生との間で積極的に会話のキャッチボールが行われたといわれています。


士農工商、それぞれのスペシャリスト育成教育

石田梅岩とは江戸時代中期に活躍した「京都商道の開祖」と掲揚されている人物で、商業道徳を説いたことで知られています。農家の次男として生まれた梅岩は11歳の頃に京都の呉服屋へ奉公に出されますが、仕事のかたわら学問に目覚めて思想家としての道に進み、45歳にして京都の貸家で無料の講座を開きました。

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梅岩は商人道を説く私塾の塾長として「石門心学」と呼ばれる思想を説き、勤勉と倹約を奨励しましたが、その心学は儒教、仏教、神道などの良い部分を自由に取り入れたものだったそうです。

一つの教えに固執しない梅岩の思想は評判となり聴講料も無料で出入り自由、女性にも開かれていたということで京都の町衆に支持されたそうです。その証拠に門下生はピーク時で400名にも達したといわれています。

石田梅岩の社会人としてのスタートは呉服町への丁稚奉公でした。「丁稚奉公」はかつての日本の人間教育を知る上でも重要なキーワードであり、一人前の商人や職人になるための長い現場修行を意味します。

商人としての道を極めるならまず6〜7歳で寺子屋に入学して「読み、書き、そろばん」などの基礎学問を身につけ、11〜12歳で「大店(おおだな)」と呼ばれる所へ奉公に出ます。その後は雑用をこなしながら仕事を覚え、長い修行を経て一人前の店員として認められのです。暖簾分けは40歳を過ぎてようやく許されるというのが一般的でした。ただし独立まできちんと面倒を見るというのが江戸時代のやり方で、それだけ指導する側の責任感も強かったようです。

職人の場合も寺子屋を経て親方に弟子入り・修行に入り、およそ10年ほどで独立。さらに現場での経験を積みながら本物の職人になっていくという流れを辿りました。農業のスペシャリストも子供の頃から親の農作業の手伝いをしながら実地経験を積み、仕事を体で覚えながら一人前になっていきました。

また、士農工商それぞれの分野での職業倫理が確立していました。武士には武士道を、商人には商人道を、また職人は職人として農民は農民としての道を究めるために、知識を蓄える一方で現場での実践を重んじました。指導者である大人たちは、人間としてもバランスの取れたスペシャリストを養成すべく、躾にとても厳しかったそうです。

大人たちは誰もが教育熱心で、子供たちは学び好き。それが江戸時代の教育の一つの特徴のようです。


今後このテーマで深掘りしていく点

今回も第二弾とうことで、江戸の教育制度を全体的に広く浅く網羅する形でまとめました。

今回の調査では特に『儒教』というキーワードが気になりました。共通の知識基盤があるからこそ、議論の土台をデフォルトで共有でき、知識の伝搬と積み上げが効率的にできるようになる、というコンセプトはまるでPCに置けるOSのような位置付けだなと思いました。

現代の組織や企業体においても共通の知識基盤を定義・設定することは全体としての生産性をあげる手段として検討に値するなと感じました。

第一弾の深掘りテーマと同じく以下の点を今後掘り下げていきたいと思います。

・徳川幕府の教育制度を形作った人は誰なのか?どのような思想のもとでそのような教育制度を立案したのか?
・庶民にまで教育が浸透していった理由はなんだったのか?
・先生は誰がなっていたのか?何か教える側の質を担保するような仕組みがあったのか?
・学力や教養が一人前かどうかを測る指標とされるまでにどの様な施策・働きかけを行ったのか?
・現代社会で学びの選択肢を増やすためにはどの様な社会評価制度が必要か?
・7,000種の教科書の中身や質、書き手を調べる


今日はこの辺で。

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