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庶民の身分管理システム - 【人口世界一:その6】


昨日は徳川幕府が採った、朝廷の管理施策と武士の役割の変遷について調べました。

今日は江戸の町の大部分を占めていた一般大衆にフォーカスをあて、江戸の町づくりのためにどの様な制度を敷いていたのかについて調べを進めたいと思います。


庶民の登録制度と身分の世襲化

徳川の平和を支えた施策として、人口の凡そ半分を構成する庶民に対しては、幾つかのグループに分ける施策がとられていた様です。

1630年代、徳川家光は全ての庶民を近在の寺院に登録させることを制度化しました。1665年になって将軍が寺院に対し庶民一人一人について檀家(寺院を支援する家)であることを保証する証文の発行を義務付けたのにともなって、この登録制度はさらに強化されました。

村人たちが転居する際にも、旅行する際にも、この証文が必要とされました。そのため、この登録制度は民衆を政治的・社会的に管理・支配するためのインフラとして活用されました。

こうした登録制度を背景として、農民の身分や商人、職人と行った町人の身分が固定化され、世襲化されることとなりました。


庶民の裁量に任せた管理手法

徳川時代の初期には人口の約80パーセントが農村に住み、主として農業で生計を立てていました。残りは、様々な職種の町人でした。各身分に区分された人々は、何をして良いか否かについて数多くの制限が設けられていました。

ただし、幕府として一般庶民の生活を細部に渡って細かく管理したわけではなかった様です。身分で仕切られていた範囲内では、庶民はかなりの自主性を認められていた様でした。旅行をするには許可が必要でしたし、都市への転居は認められませんでしたが、こうした規則の実施はごく緩やかなことが多かったと言われています。実際に幕府も藩政府も村人が年貢を納めさえすれば、村々の内部問題には干渉しなかった様です。

幕府は個々の農民から年貢を徴収するのではなく、村を一つの単位として、村全体から年貢を徴収する手法を採用していました。一方で、村側としては内部問題の管理、秩序の維持、幕府ないしは藩の当局への犯罪人の引き渡しを共同の責任で行う権限を確保していた様です。

都市の住人に対する扱いも、商人であるか職人であるかに関わらず、また江戸や大坂といった幕府直轄の大都市であるか、全国各地の数百の城下町であるかに関わらず、大筋においては、村人たちに対する扱いと同等でした。

武士である役人たちは、町の秩序を維持し経済活動を規制する権限と責任を有力な商人によって構成される評議会に委譲しました。江戸の町の管理システムについてはこちらの記事に纏めています。

有力な町人の長老グループが、法の施行、犯罪捜査、徴税の責任を担っていました。


身分制度が生んだ差別

この頃の日本は儒教思想が強く、社会秩序については士農工商の四つの階級に分けた世俗的な権威のヒエラルキーを形成すべき、とする見方が強くありました。

一方で、これら4つのグループのどれにも当てはまらない庶民が数多くいたのも事実でした。そのうちの一部の人々は、社会的に尊敬を集めたり、著名な人々で、仏教の僧侶、役者、芸術家などでしたが、遊女などその当時の社会で軽蔑された人々(当時、賎民(せんみん)と呼ばれた)のグループも存在しました。

最大の賎民グループは穢多(えた)と呼ばれ、こうした身分も世襲化されていました。このグループに区分されていた人々は各地に点在するコミュニティーに住み、死体の埋葬、処刑、屠殺(とさつ)、および動物の死体処理など、一般的に不浄とみなされる作業に従事していました。

賎民にはまた、非人(ひにん)と呼ばれるカテゴリーに属されていた人々もおり、主に生業の範囲を屑拾いなどに限定されていた犯罪人たちが含まれていたそうです。


物理的な区分

17世紀に、遊女屋、芝居小屋、飲食店からなる複数の歓楽街を将軍の城から程遠い場所に集める施策がとられました。それが現在の吉原の原型です。吉原に開設された遊郭はとても繁盛したそうです。当時の道徳主義的な役人たちは吉原の存在を忌み嫌いましたが、武士の中には職務を忘れて遊興に走る者も多くいたそうです。

庶民2

しかし、江戸幕府はそうした遊郭の存在自体を潰そうとは考えなかった様です。その証拠に幕府は、1657年に大火が起きて遊郭が置かれていた地区が焼け落ちたのにも関わらず、市街のもっと外れた地区に新吉原を建設させました。吉原には遊女屋の他にも、茶屋や、歌舞伎の芝居小屋、飲食店も建ち並んでいました。また吉原の近くには江戸の寺院の大半が集まっていたほか、世襲的な賎民が取り仕切る処刑場も置かれていました。

こうして様々な範疇の賎民と、遊女、僧侶など社会の周辺に位置する全ての人々を物理的に都市の外れに配置することにより観念上だけではなく、実際上も社会の周辺部に追いやる狙いがあったのでは、といわれています。


宗教への対応

徳川幕府は宗教組織には特別な注意を払いました。

庶民の全てが寺院への登録を義務付けられただけでなく、寺院自体も厳しい制約を受けたといわれています。寺院の数と場所は指定され、毎年幕府あるいは藩主への報告が義務付けられていました。

こうした規制の狙いは、寺院がかつてのように勢力を伸ばして幕府に挑戦するような事態が起こるのを未然に防止することにあった様です。


今後このテーマで深掘りしていく点

江戸の諸制度を理解する上で世襲化は一つの重要なキーワードだと思っていましたが、その世襲化を可能にした登録制度の輪郭が理解できました。

登録制度による身分の明確化を背景として、どの様な規制を敷いていて、どこまで裁量権を与えていたのか、この辺りのシステムがきになるので今後深掘りしていく予定です。

現在、江戸の研究と同時並行的に学習しているのが『ホラクラシー』と呼ばれる組織運営モデルなのですが、明確なルールが存在すること、また役割を明確化することとその役割に責任と権限を付与する点が非常に近しいと感じており、もしかしたら元々の日本社会はホラクラシー的な組織運営システムを持っていたのではないかと感じています。

また、今回の調査で蔑まされていた身分の人たちを物理的に同じ空間に隔離する施策がとられていたことがわかったのですが、この空間から現在にまで繋がる歌舞伎などの日本の伝統芸能が生まれている点が非常に興味深いです。

もしかすると管理の目の届かない自由な空間こそが人々のクリエイティビティーを引き出すのかもしれません。この辺りの歴史についても紐解いて行けたらと思います。


今日はこの辺で。

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