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徳川幕府が敷いた制度の歴史的変遷 - 【人口世界一:その3】

今回の記事から特に徳川幕府が江戸、ないしは日本を統治するために敷いた制度が確立するまでの歴史的変遷にフォーカスを当てて深掘りしていきたいと思います。


天下の統一

徳川時代の特徴として最も重要なことは、戦乱が生じなかったということです。まず室町時代から遡って天下の統一までの流れを見ていきたいと思います。

1467年から77年に至る応仁の乱によって、それまで794年以来天皇の宮廷がおかれ、寺院や公家の屋敷を擁する京都が破壊されました。それに続く1世紀間、戦乱は途絶えることなく続きました。何十万もの武装した武士たちが、大名の下に集結し、土地、領民、通商を支配下に置くことを目指して互いに競い合いました。

いわゆる天下人として先陣を切ったのはかの有名な織田信長です。織田家は元々現在の名古屋に近い尾張の国の小規模な守護代の家柄でした。1555年、権力獲得に向けて行動を開始した信長は仏教勢力の拠点を相次いで襲撃し、数千の僧侶を殺害し、膨大な経典などの書物と寺院を焼き払ったと伝えられています。

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1580年には一向一揆の最重要拠点地だった石山本願寺城を攻めて降伏させ、1582年の本能寺の変で配下の裏切りによって暗殺される時点までに日本の約3分の2を配下に置くまでに至りました。


信長が残した制度

信長はこの時代に自分の後継者たちが効果的に活用することになる様々な支配制度を構築しました。村人たちが年貢を治める限りは、村組織を比較的自律的な形態に保つことを奨励ないしは許容しました。彼はまた、年貢徴収の機構を編み出すことで、家臣たちが直接に村人たちから年貢を徴収することを封じ、その代わりに年貢の取り立てを専門に行う役職を設けて、それら役職が徴収した年貢の一部を家臣たちに、さらに一部を信長に納めるという方式を採用しました。

これと並行して信長は、小規模の大名たち数千人をその領地から切り離しました。これら領主に対して、その領地の大きさと石高を反映する知行(ちぎょう)を保証するのと引き換えに、土地所有権を剥奪したのです。これによって信長は配下の大名たちへの領地の割り振りを変更する権利を確立しました。

このシステムを機能させるためには、土地の質、生産力、面積、所有者に関する系統立った調査が不可欠でした。信長が先鞭をつけたこの農地の質と量についての調査・測定の利用は、近世の政治制度の基礎をなすものとなりました。村人たちを武装解除し、武士と農民の身分をかなり厳格に区別すると言う慣行を導入したのも信長でした。


秀吉の戦略と上乗せした制度

信長の死後、天下統一に向け信長の統一事業を継承したのが豊臣秀吉でした。秀吉は信長がライバルたちを抹殺し、その領土を信頼の置ける家臣たちに分け与えたのと対照的に、同盟関係を築くという方針をとりました。

つまり抵抗する敵は攻撃しましたが、立場を変えて自分の陣門に加わり忠誠を誓うものたちは受け入れました。このように秀吉は1591年までにその支配を日本全土に広げました。

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秀吉は信長が作り出した諸制度を引き継ぎ、系統化すると同時に、部分的に自分なりの新機軸を加えていきました。一つは大名たちに忠誠の証として人質を差し出させたことです。1588年には、秀吉は自分が支配する全土で農民から武器を没収するいわゆる刀狩りを実施しましたし、1592年と97年の2度に渡って朝鮮遠征も行いました。

秀吉は、信頼をおく有力大名たちを五大老・奉行に任命してからこの世を去りました。やがて大名たちは互いに権力闘争を繰り広げることになります。


徳川の政治的施策

数十年間にわたる権力闘争の動きは徳川家の幕府による支配という形で決着しました。幕府初代の将軍となった徳川家康は、秀吉の同輩であり、潜在的に秀吉の最大のライバルと呼ばれていましたが秀吉に歯向かうことは控え、むしろ関東平野地方の本拠地の地盤固めに専念して時期の到来をまっていました。信長と秀吉の例にならって、1580年代と90年代には領地を確実に統治する行政組織を粛々と築き上げいました。

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秀吉の死後、五大老の一人であった家康は直ちに味方を結集し、1600年、秀吉の息子秀頼に忠誠を誓った他の重臣たちの軍勢をあの有名な関ヶ原の戦いで滅ぼしました。この勝利によって家康は実質的に確固たる覇権を手に入れたのです。1603年、家康の指示により、朝廷から家康への征夷大将軍の宣下がありました。

関ヶ原の合戦から5年しか経っていない1605年、まだまだ心身ともに健康な状態であったのにも関わらず家康は将軍職から「引退」しました。自分が元気なうちに相続をスムーズかつ確実に行うために息子の秀忠に将軍職を譲ったのでした。その後家康は1616年に死ぬまでの間、「大御所」として陰から実権を行使し続けました。

秀忠が大御所の監視を受けずに将軍職を務めるようになったのは、1623年に将軍職を辞し、息子の家光に将軍職を譲るまでのわずか7年間だったと言われています。秀忠もそれから1632年に死ぬまでの9年間、大御所として家光を監督しました。

3代将軍となった家康の孫家光が将軍の地位にあった1623年から51年までの期間は徳川独裁体制の絶頂期に当たります。家康と家光は、信長と秀吉が残した成果の上に立って、新秩序を支える一連のいわば「仕掛け」を編み出していきました。つまり、徳川幕府を支える諸制度は徳川家が独自に築き上げたというよりは、それ以前の支配者たちによって築き上げられたものを応用し、積み上げつつ編み出されたものと言えるでしょう。

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こうして打ち出された様々な制度や取り決めによって、政治権力の頂点に立つ徳川家の地位が安泰となった一方で、上は大名や朝廷から、下は武士、農民、商人、僧侶に至るまで、徳川家に敵対する可能性のあるすべてのものたちが無力化されました。日本史が始まって以来最も安定した政治秩序が実現さるに至ったのです。


今後このテーマで深掘りしていく点

徳川時代に打ち出された制度は次回から纏めていこうと思います。


今日はこの辺で。

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