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江戸時代の対外政策 - 【人口世界一:その7】


前回は江戸の幕府が敷いた庶民の管理システムについて言及しました。

今回はこの時代の海外、もしくは外国人との関わりについて深掘りしていきたいと思います。


家光の鎖国政策の実態

徳川期の日本の対外関係の特徴はなんといっても『鎖国』です。

17世紀に徳川幕府は、商品とともに宗教を売り込もうとした国々との交易を断ちました。この方針によって、1540年代以来貿易とキリスト教布教の両方を追求していたスペインとポルトガルが排除されました。

参勤交代の制度が打ち出された時期と重なる1633年から39年までの時期に家光は、日本人と外国人の交流を制限する一連の命令を出しました。日本人に対しては朝鮮以西、琉球諸島以南の海域にまで航海することを禁止しました。外国人に対しては日本への武器の輸出を制限し、キリスト教の信仰と布教、カトリック教徒の日本入国を禁じました。

1637年〜38年の間、キリスト教信仰が盛んだった長崎近くの島原で、凶作下での厳しい年貢取り立てに対する不満と、キリスト教の弾圧に対する不満の両方に突き動かされた農民たちが一揆を起こしました。幕府軍はこれを反逆的なキリシタンによる挑戦と捉え、一揆を容赦なく弾圧し、推定3万7,000人が亡くなったとされています。

さらに、家光はその他全ての外国人に日本国内を旅行したり、日本人に書籍を売ったり与えたりすることを禁じました。


鎖国中の諸外国の発展

イギリスはすでに1623年に日本との貿易を断念していたと言われています。スペインも翌1624年にこれに続く形で貿易を断念しました。ポルトガル人が国外に追放になったため、残ったのはオランダ人だけでした。

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オランダ人は日本人へのキリスト教の布教を行わず、貿易だけに専念することとしたため追放されなくて済んだ様です。彼らは長崎港内の出島に設けられた小さな居留地で暮らしていたようです。

これらの措置の影響により、日本と欧米の交流は大幅に制約されました。その期間はヨーロッパの歴史の中でも発展が著しかった時期と重なります。産業革命とブルジョア革命が起き、各地の植民地化が進み、北米がイギリスの植民地であった時代とアメリカ合衆国として独立してからの最初の70年間をすっぽり含む期間でした。


鎖国時代も続いた諸外国との交易

一方で、徳川幕府の敷いた鎖国政策は諸外国との国交を完全に断絶したわけではありませんでした。依然として西欧との一定の貿易を許容していましたし、私的な海外旅行を禁止したことを除けば、アジアで対外関係を深める努力は継続していました。

幕府公認の通商・外交使節の派遣を積極的に進めました。その目的は対外関係を深めると同時に国内での覇権を維持することにあった様です。薩摩藩は、琉球諸島と交易を行うことを認められ、中国製品を導入するための窓口として機能しました。中国で明朝が滅亡し清朝が成立するという政変が起き、内戦の行方がまだ定まらない1646年の時点においてさえ、江戸の幕府首脳たちは、薩摩に琉球貿易を続行させることを決定しています。

この通商関係は商品だけでなく情報へのアクセスという点でも重要な意味を持っていました。1635年までは長崎を窓口として中国との貿易の他にも、日本・ベトナム間の直接貿易も盛んに行われており、幕府の許可を得た日本の貿易商たちは銅銭を中心とする硬貨と陶磁器をベトナムに輸出し、主に生糸と陶磁器を輸入していたそうです。1635年、幕府は日本人によるベトナム貿易を禁止したが、中国の貿易商たちは長崎を拠点にこの貿易を続けました。

徳川幕府は朝鮮とも経済的・政治的関係を維持しましたが、これも後に重要な意味を持ってきます。朝鮮との交流は秀吉による朝鮮出兵から約10年後に再開されました。日本側は長崎の出島の商館と同じような居留地を釜山に構えました。朝鮮との貿易は膨大な量にのぼったと言われています。

九州から朝鮮南部までのちょうど中間点の玄界灘に浮かぶ、農地のほとんどない小島に置かれた対馬藩が対朝鮮貿易を担ったわけですが、1700年頃には対馬藩は日本本土でも最大級の石高に匹敵するほどの収入を朝鮮貿易によって得るまでに成長していたそうです。


近隣国との使節団の交流

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さらに徳川幕府は自らの政治的正当性をアピールする為に、特に朝鮮との使節の交流を中心とする外交政策を積極的に活用しました。17世紀初頭の国交回復以来、1610年から1811年までの間に朝鮮から通信使など大規模な公式施設が合計12回日本に送られたと記録されています。一回の通信使の規模は300人から500人にのぼり、派遣されてきたのは将軍の代替わりや将軍の世継ぎの誕生という祝賀の機会が主だったと言われています。一方で朝鮮側は日本側の使節の受け入れには消極的だった様で、日本側から朝鮮への公式使節の派遣は行われなかったそうです。

同様な外交関係は、琉球と幕府の間でも行われていました。1610年から1850年までの間に琉球は将軍の代替わりを祝う慶賀使など合計21の使節団を江戸に派遣したと言われています。

一方で、徳川幕府は中国の明・清とは正式の国交を結びませんでした。それは日本側が中国側の要求するような、中国の優位を認めた形での交流を拒んだことが理由として挙げられます。中国は諸外国に対し中国をアジア地域の秩序の中心に据える前提での国交を求めていました。一方で幕府は諸外国に対して覇権主義的に付き合うのではなく、ある種対等な付き合いを求める方針をとっていた様です。


外交政策の国内への狙い

こうした外交政策のもう一つの側面は、徳川家が日本の支配者であるという国内での立場を正当化しようとしたことが挙げられます。とりわけ将軍家がいかに外国人によって敬われているかを多くの大名に印象付けようとしました。

この狙いが特に見て取れたのが一連のいわゆる外国人追放令が出された頃の1617年と1634年の朝鮮通信使の扱いで、外様、譜代、親藩の全ての大名に対し、428名の通信使一行を歓迎する宴会、通信使の行列、家康の墓への墓参に参列する様に命令が下りました。

通信使が将軍家に数々の品物を献上し、天下の統一を祝って慶賀の意を評するのを、大名たちに印象付けようとしました。その後何十年にも渡って、朝鮮通信使は日本国内の政治秩序が国外でも尊敬を受けていることをエリートの大名たちや上層の武士たちに示す機会を担いました。


今後このテーマで深掘りしていく点

5回にわたって纏めてきた徳川体制を支えた仕組みの数々は、主として徳川家康の下で編み出され、孫の家光によって確立されました。逆に言えばこの3世代に後に続く約250年もの平和の土台が築かれたのです。

特に全ての制度の根底にある『身分制度』は信長・秀吉時代の制度を引き継ぎ、建前の上では人々に厳格に定められたそれぞれの身分の枠内に留まる様な制約が課せられていましたが、その実、自主規制の自由と責任も付与されていました。

こうしたある程度の自治を人々に認めた徳川期の政治体制は持続的であり、時の経過と変化に柔軟に対応する力を持っていた様に思われます。この体制は日本にそれまでになかった長期の平和をもたらし、経済は大きく発展し、都市と農村の文化生活は活気に満ち、クリエイティビティーが向上しました。

今回までで江戸時代に生まれた諸制度が発生する社会的背景の土台はある程度網羅できたと思っていますので、次回からは個別の事象をピックアップしながら深掘りを進めていきたいと考えています。

今日はこの辺で。


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