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校長先生への手紙 〜故伊藤良治先生に読んでほしかった「note」

 2021年11月17日早朝、故郷の友達から訃報が届いた。「おはよう。今朝の岩手日報に…」と、朝刊のおくやみ掲載欄を撮った写真がLINEに添付されてきた。
【伊藤良治(いとう・りょうじ)氏 15日午後4時5分、老衰のため一関市内の病院で死去】

 伊藤良治さんはかつて岩手県釜石市立甲子(かっし)中学校の校長先生であり、わたしは当時の生徒だった。伊藤先生は校長だから授業を受けたことはないしそれほど頻繁に話した記憶もないが、シュッとして姿勢が良く眼鏡の奥の瞳も優しくて、わたしは何となく好きだった。世間一般的な「校長」のイメージであるお腹でっぷり、話長い、みたいなものとは正反対。小、中、高校の学生生活で一番印象に残っている校長といえば伊藤先生だ。
 先生はよく校内を見回っていた記憶がある。
 ふと気がつくと部活をしている体育館の入口に立っていたり。そういえば我々の学年の修学旅行にも同行されていたっけ。その表情はいつも柔らかく微笑んでいるように見えた。
 個人的なことを書くと、わたしは中2以降はなかなか扱いづらい生徒だったかもしれず、友達のさとこちゃんに言わせると「あのころは結構、心配した」こともあったそうである。そう言われれば中2や中3のころは校内やその周辺で危うい目に遭ったこともあり、そのうちの一度は、伊藤先生が通りかかったおかげで難を逃れたのだった。先生はいつも静かに歩いているだけのようでいて、実は、わたしたちは常に守られていたんだと思う。

 校長先生との「思い出」が決定的になったのは中3の卒業の日のことだ。
 卒業式が行われた講堂には、3年生全員の自画像がずらりと張り出されていた。美術(担当:小松太先生)の授業で最後に課されたのが、自画像だった。
 わたしはその水彩画に思い入れがあった。美術の成績で「5」をもらったし、まるで生き写しだとみんなから褒められた。自分でいうのも変だが確かに会心の出来で、持ち帰って親きょうだいに見せるのを楽しみにしていた。
 卒業式が終わり、3年C組の教室で仲間とバカみたいにおどけた写真をたくさん撮った。名残惜しむだけ惜しんでふざけてじゃれ合って、そうだ、自画像を持ってこなきゃ、と講堂へ戻った。
 しかしわたしの自画像が張られていた場所はポカッと空洞になっていた。
 すでにところどころ空洞になっていて、自身で持ち帰った人、また「好きな先輩」の自画像をこっそり剝がして持っていった後輩などもいるとのことだった。自分の絵が無いことに驚いて辺りを見回していると、女性の先生(国語だったか保健室の先生だったか定かでない)が「校長先生が気に入ったがらもらってぐって言って、剝がしてったよ」とおしえてくれた。

 ええーーー。マジか。(と、当時は言わなかった)
 噓ぉ…。(ウソ!? とかホント?とか聞き返すと怒られた時代だ)
先生に返してもらわねばー!と、職員室に走った。校長先生は?と手当り次第に聞いたが、会うことはできなかった。「先生に、自画像返してって言っといてぇ」とその辺にいた職員にお願いしたが、みんな笑うだけで、それが叶えられることはなかった。
 そしてその後、校長先生に生涯会えないなんて思ってもみなかった。

 わたしは記憶力がいいのでそのあたりのことははっきり憶えている。
 絵を描くことは、当時、心を整える唯一の術だったかもしれない。わたしは中2の時に「音楽ライターになる」と決めたので、そのほかのことはどうでもよくなってしまい、中2から高3までの先生方にとっては「教え甲斐のない生徒」だったと思う。中学の担任のスケさん(高橋弘先生)には「南高(自宅から徒歩5分の進学校)に絶対受かっから心配しねで」と言いつつ、受験勉強はほとんどしなかった。勉強を装い、自室でひたすら絵を描いていた。ボーイ・ジョージ(Culture Club)、デヴィッド・シルヴィアン(JAPAN)、小田和正などなど、音楽雑誌のグラビアで見た彼らをひたすら写実的に描くことに集中していた。岩手の実家には今でもそれらの絵が置いてある。そんなふうに難しい年頃をやり過ごしながら描いた絵の人物を見ると、ありありと当時の想いが蘇ってくる。わたしは、そこに自画像を並べてみたかったのだと思う。
 伊藤先生のところにもらわれていったという自画像がその後どうなったのかは分からずじまい。わたしはそれ以来、絵を描いていない。

 宣言どおり岩手県立釜石南高等学校に入り、卒業して東京に行き音楽ライターになったが、たまに実家へ帰れば絵のことを思い出した。伊藤先生やスケさんにも会いたかった。が、教員には転勤がつきもので転居先などは分からなかった。
 今から2年前の2019年11月、釜石に住む友達(きよえちゃん)が「スケさんが亡くなったって」と連絡をくれた。お通夜にも行ったらしい。
 伊藤先生は校長だったからスケさんより5歳ほどは年長のはず。お元気なのだろうか…。「校長のこと何か分かったらおしえで〜」ときよえちゃんにお願いしてみた。
 思えば。今にして、思えば。
 なぜネット検索というものをしてみなかったのだろうか。あれほどの先生が、教員を定年退職したからといってそのまま隠居生活をしているわけがなかった。訃報を聞く前に調べる術はあったのに……。
 先生は本を出版されていた。岩手日報文学賞・賢治賞も受賞されたそうだ。


なんと、一関市にある「石と賢治のミュージアム」の館長もされていた。

 もし出版社に手紙を出したらご本人へ転送してくれただろうし、一関市は結構遠いけどミュージアムに会いに行くことだって可能だったはず。
 人は日々、忙殺されこうして「後悔」を覚えていく。
 今さらもう遅いけど、本をネット注文してみた。本を読んだらもっと先生と話したかったことがつのるだろう−−。

【伊藤良治先生、
 先生は宮沢賢治について研究熱心だったんですね。そういったお話を朝礼で聞いたこともあったかもしれません。
 先生、わたしも先生より10年以上前に本を出版したんですよ。20万部くらい売れました。見てほしかったな。
 先生、甲子中学校での一番の思い出ってなんですか? わたしたちは木造校舎の最後の卒業生でした。市内でももう珍しかった木造校舎、本当に寒かったですよね。隙間風が寒いからこそ教室の真ん中のストーブでみんな肩寄せ合えたのかもしれません。卒業後にピカピカに建て替えられて、学校に遊びに行きづらくなってしまいました。先生にも会えなくてとても残念でした。
 先生、先生が持ち帰ったというわたしの自画像はどうなったのでしょう。今はこんな顔になりました。わたしのこと憶えていますか。先生から見てわたしはどういう生徒でしたか。

 なんと、これを書いているわたしはあのころの先生方に近い年齢になりました。先生がいかに大人らしい大人だったかが今になって分かります。
 奇しくも執筆中の今日、アメリカンリーグのMVPに大谷翔平選手が選ばれました。彼のピュアさ、受け答えなどからも見受けられる誠実さは、岩手生まれ岩手育ちだからこその長所だと思います。県の先生方の熱心な教育の賜物であり、その大成功例といえるのではないでしょうか。
 どう頑張っても彼の足元にも及びませんが、これからも「岩手産」であることに恥じぬよう前向きに生きていけたらと思います。

 郷里のPTAでも頑張るきよえちゃんからの便りでは、現在の甲子中の校長室に、伊藤先生と、のちに校長となったスケさんの写真が並んで飾ってあるそうです。今ごろはそちらで再会して盃でも交わしているでしょうか。「あの生徒には手こずったなや〜」とか、そんな話題も出ているでしょうか。
 先生、ゆっくりお休みになってください。いつかわたしがそちらに行った際には今度こそ思い出話させてください。
 先生、本当にありがとうございました。】


(伊藤美保)


※トップ画像は釜石市立甲子中学校の卒業アルバムより
前段左から4人目が伊藤良治校長、その左隣がスケさん(高橋弘先生)
背景は、この1年後に取り壊される木造校舎

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