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清春「The Birthday」レポート〜美しい時間をありがとう〜 コロナ禍を越えた「歌」と「愛」のレスポンス

 ヴォーカリスト清春のライブ「The Birthday」を観るため恵比寿The Garden Hallへ行った。

 この会場に行くのは、2020年2月9日、同じく清春のソロライブ以来。それが“コロナ前”、筆者が実際に足を運んだ“ほぼ最後のライブ”だ。あれから世界は大きく様変わりした。信じられないことに、自身約1年9カ月振りの生ライブ(=配信を家で観るのではないという意味の、生)。出発前、大いにうろたえる。何を着ていったらいいんだっけ。あ、急に動いたら腰が痛い。最近ずっと乗っていない路線への乗り換えは大丈夫か?などなど。ピーク時は年間のライブ鑑賞100本以上(取材含む)、オールスタンディングの会場で3時間超えもざらだった自分と比べると完全な浦島太郎状態だ。そして何よりの失態は、メモできるものを持っていなかったこと。取材ではない時も覚え書きは必須だったのに、今日はそれが無い。

 (いきなり時間が飛んで申し訳ないが)終演後。これは今日、レポートを書くしかないのでは。そしてこのアカウントを公開するには今日しかないのでは、と一目散に帰った。実はこのnoteのアカウントは数年前からある。アイコンを、尊敬するデザイナー秋田和徳さんが「テストで」とわざわざ作ってくださったにもかかわらず、見出しだけの記事、下書きだけの記事で止まっていた。理由はさまざまあるが、まずはわたしが“書けなかった”ことだ。ブランクがあるためおそらく拙い文章になる。今日はメモ書きもゼロだ。それでもこのライブは記録しておかねばならないという気持ちになった。しかしここは私的なメディアであるため自身のこと、コロナ禍のことなども書くことをご了承いただきたい。

 久々に目にしたステージセットはシンプルだった。上手にギター、下手寄りにドラムセット。中央に、、ああなんと華やかなオーラを纏った人だろう。ヴォーカル清春、ギターDURAN氏、ドラムKatsuma氏、演者は3人だけなのにとてつもなく艶やかなロックが場内を駆け巡る。いや、ロックという括りさえもう清春には要らないのかもしれない。かつての黒夢はヴォーカルとベースという2人編成。それが、今日はベースレス。ジャンルや編成など軽々と超越する変幻自在の清春に我々は常に驚かされ、ヴォーカリストとして、表現者としての新たな可能性を見せつけられる。ぐんぐんその世界に引き込まれていく。

 と、久しぶりの生ステージに心酔していれば、MCでは……「疲れた」「もうね、どんどん動けなくなるから」「歌詞も見えないし」「耳も聞こえないし(笑)」など、まるで今日のファンには我儘言ってもいいよね!といわんばかりのまったりトーク。観客のマスクから思わず笑いがこぼれる。語られるその状態はライブ前までの自分と重なり、カリスマが一気に身近な存在に感じられる。「The Birthday」というライブの特性上、観客は清春の誕生日(10月30日)をお祝いしたくて駆けつけた人がほとんどだろう。そんな信頼できるファン達を前に、清春は、まるで休日にソファーで溶けるお兄ちゃんかお父さんかのような姿も見せる。そして、「もうバースデイライブはいつが最後になるか分かんないからね。目に焼き付けて」とも。舞台を「カリスマの独壇場」にも「家族とのお茶の間」のようにも変えることができるのだ。

 この日は、デジタルシングル第1弾「ガイア」の初披露と、会場限定CDが販売されるというトピックスも観客を喜ばせた。新曲や、アレンジを変えた楽曲が、ライブのなかった期間に乾ききったココロやカラダを満たしていく。また、清春のMCから、コロナ禍はわたしたち一般人だけでなくアーティストにも降り掛かった重い厄災だと再認識できた。そんな中でも彼は、なんとか「歌」を届けられないか、リスナーのために何かできないかという気持ちを常に発信してくれていた。その姿勢は心強いものだったが、やはり今日のような「再会」は何ものにも代えがたい。たとえば、歌メロの間に間に溢れる吐息。たとえば、ステージで燻らすたばこの煙。客席最後方にいても、マスク越しにでも、その薫りは届いた。もっと前方にいたリスナー達はどうだっただろう。ああ、やっと同じ空間に戻ってこられたと涙腺が緩んだ方も多かったのではないだろうか。

 アンコールでは、曲を演奏し始めようとした清春へ突如サプライズ映像が披露された。ライブ前にゲリラ撮影されたというファン達やスタッフ、友人や芸人らからのお祝いメッセージに、清春は「ありがとう」「マジで?」「やったね!」と心から嬉しそうな笑顔で応えた。当然ながらメッセージは100パーセント「おめでとうございます」なのだが、加えて「いつもありがとうございます」が多いことにも大いに頷けた。

 コロナでエンタメ界が沈んだ約2年、発信者(つまりアーティスト本人)に対しほぼ何も貢献できることがないという状況は非常にもどかしかった。たとえばライブにおける現場スタッフやわたしのような執筆者はまさにそうで、辛さからSNSを封印していた時期もある。それでも清春はテレビのバラエティーなどにたびたび登場したり、ネットニュースでふとインタビューが流れてきたりと、あらゆるメディアで健在ぶりを確認することが出来、そのたびに和ませてもらったり勇気をもらったりした。「そうだ、清春さんがいる」。この苦境が落ち着いたら、また何か書かせてもらおう。会えるようになったら、ありがとうございます、あのテレビ見ましたよとか話そう。そんなふうに希望を持てた。

 サプライズ映像で笑って喉が潤ったかのように、アンコールでの清春のヴォルテージは爆上がりでさらに観客を煽った。円熟味に溢れた低音、妖艶な高音、マイクを離しても響き渡るシャウト。なぜこの人の声は後半や終盤にも驚異的に伸びるのだろうといつも思う。夢のような時間ほど流れは速く、もっと聴いていたい、もっと歌ってきかせたい、その双方の思いがいつも別れ際を切なくさせる。

 「それほど遠くないから」「日本にいれば、ね」「絶対会えるから」。ステージを去る間際に清春がそう言ったのは、まだ直接会場に来ることができない人達へも「いつか会えるよ」と伝えたかったのだろうか。 −− 彼のこの慈愛に満ちた姿に、実は筆者はまだ不慣れであり、ファンらとの相思相愛ぶりには驚かされたりもする。わたしがヴォーカリスト清春に出会ったのは30年ほど前のことで(と自分で書きながらこれも驚愕している)、それから30年ずっと彼の動向を追い続けていたわけではなかった。いつ頃からなのだろう、彼にとってもファンにとってもお互いが「最愛」となり、清春の唯一無二である歌に対し、観客がありったけの愛情表現によりレスポンスする光景が生じたのは。現在では全員がマスク越しで声をほとんど発することができなくても伝わる、とても大きくて温かいものだ。文章では限界を感じるので、この空気感にぜひ直接触れてみてほしいし、もちろん、これから新たにその中へ飛び込むことも可能だ。

 2021年にも訪れたこの尊い光景を、両腕を上げて包み込むようにしながら清春が叫んだ。「ありがとう。美しい時間をありがとう」



 実際のライブ空間という、この約2年ほどの間には天上のように遠く感じていた場所で、新曲も聴けた。久しぶりの感動を忘れないよう、家でもすぐに“盤”で「ガイア」を聴きたい!と、思わず小走りに物販へと向かった。が、「大変申し訳ございません、CDは完売となりました」と販売員さん。え、噓。CDって売り切れるんだ。入場者分、ないんだ!? それかお客さん達、どんだけ買ったの……。このショッキングな体験(失礼)は自分たちが企画するイベントなどの際に生かそうと心に誓った。

 まだコロナが収束したわけではなく、以前のように戻るには様々な対策やリハビリが必要だ。しかし、光は見えた。カリスマが先導してくれる。いつかまた語らう機会を持てるとしたら、どんなテーマで話そうか −− 。昂揚しふわふわとした感覚は今もまだ続いている。

(文=伊藤美保)


※10月31日追記
Loyal Code Artists様よりトップ画像をご提供いただきました。

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