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忘れてしまうこと、忘れたくないこと

編集デザイナー夫婦の(編集者)のほうです。

僕のおばあちゃんは認知症だった。

アルツハイマー型の認知症で90歳を過ぎたあたりから症状がではじめて、病院に通うようになっていた。

昔から、僕の家では年に1回、親戚一同が集まって、母方の祖父母の家で新年会をやるのが習わしだった。
当時、僕はおばあちゃんの住む町からは、離れて暮らしていたので、会うことも少なくて(いま思うとそれは申し訳なかったなと思うのだが)、結局年1回の新年会が、おばあちゃんに会う数少ない機会になっていた。

認知症の症状が割と進んだ晩年は、おばあちゃんは自分でも認知症であることがわかっていて、新年会で会うたびに
「おばあちゃん、すぐ忘れちゃうから困るのよ」
とちょっと自嘲気味に言っていたのを、いまでもおぼえている。

認知症には同じ話を何度も繰り返す症状がある。
おばあちゃんも、会うたびに、そして一日に何度も同じ話をすることがあった。

なかでも特に僕がよくおぼえているのは、戦争中の話だ。

おばあちゃんは九州の生まれで、戦争中には福岡の小倉にいたらしく、そこで起重機(重い荷物を上げおろししたり水平方向に移動したりするためのクレーン)を操作していたそうだ。

積み荷をうまく乗せられないと馬が暴れたとか、免許取り立てなのにトラックを運転したとかいったことを、臨場感たっぷりに、そして何度も何度も話してくれた。

おばあちゃんの息子である親戚のおじさんは、「またその話か」という感じで、僕に「真面目に聞かなくていいよ」と言うのだが、
僕は、意外とその話を聞くのが嫌いではなかった。

確かに話は毎回同じなのだが、それに対して、微妙に違う角度から僕が質問をすることで、おばあちゃんとの会話を広げていく感じが、けっこう楽しかった。

ちなみに、認知症になる前には、そんな話を聞いたことは一度もなかった。
たしか、テレビで戦後60年とか言っていた頃だった気がする。
60年経っても話したいというのは、おばあちゃんにとって、それほど強烈な体験だったのかもしれない。

余談だが、小倉といえば原爆が落とされる予定だった場所だ(原爆投下予定の8月9日、小倉上空の天候が雲に覆われていたため、投下場所は長崎に変更された)。
もし原爆が小倉に投下されていたとしたら、僕の母は生まれていなかったかもしれず、そうなれば僕もいなかったわけだから、人生というのは不思議なもんだなと思う。

それから、妻をおばあちゃんに紹介したことも思い出の一つかもしれない。
妻と結婚したころには、もうおばあちゃんには認知症の症状が出ていた。
それでも、はじめて妻を新年会に連れて行って、紹介したときはとても喜んでくれた。

しかし翌年、妻と一緒に新年会に行くと「どちらさんだったかね?」という感じで妻のことを、おぼえていないのだ。
だから、その年も僕が結婚したことをおばあちゃんに伝えて、再び妻を紹介することになる。
すると、おばあちゃんは、まるでそのことを初めて聞いたかのように、「そうね!」と言って、妻の手を握って喜んだりするのだ。

嬉しいことは、忘れることで、何回でも喜べる。
変な言い方だが、認知症も意外と悪くないかもなと思った瞬間だった。

そんなおばあちゃんは、一緒に暮らすおじいちゃんと共に、娘である僕の母、親せきの手を借りながら、なんとか暮らしていた。

そんなある日、健康のために続けていた散歩中に転倒し、骨折してしまった。

高齢者の骨折というのは、とても深刻で、年齢のせいで治りも遅いから、体へのダメージも大きい。
実際おばあちゃんも、なかなか治らず、寝たきり状態になって入院をすることになった。
そこからの症状の悪化は早かったように思う。
もっとも、それを見守るおじいちゃんや母や親せきの体感的にはすごく長かっただろうけど。

おばあちゃんの体調が本当に悪くなって、いよいよという時に母から「おばあちゃんに会いに行きなさい」と言われて病院にはじめてお見舞いに出かけた。
母から病状は聞いていたけど、そんな状況になるまで、僕は特に何もしなかったし、なにができるかもよくわからなかった。
そして、少しだけ後ろめたさがあった。

当日。
おばあちゃんの入院している郊外の病院まで、最寄りの駅から父と母と歩いた。
その日は晴れた日で、病院は週末で休診日だった。
そのため表玄関は施錠されていて、裏口の通用口で面会受付を済ませた。
それほど大きくない病院の、ちょっと薄暗い廊下を歩いて、病室の前まで歩く。
中をのぞくと、左右向かい合わせで3つずつ、計6つのベッドが見えた。

窓側の右のベッドがおばあちゃんのベットだった。
紫色のナース服を着た2人の女性看護師さんが、隣のベッドの患者さんに声を掛けながら看護をしている。
患者さんが、時おり低いうめき声をあげる。
その患者さんも高齢者だった。
しばらくすると、看護が終わったのか、看護師さんたちがおしゃべりをしながら病室を出ていく。
彼女たちにとってはあたりまえの日常。
でも、それが少し救いのような気もする。

久しぶりに会ったおばあちゃんは、おどろくほど小さくなっていた。
ベッドに横たわって、起き上がることも、話すこともできない。
それでも、母が僕が来たことをおばあちゃんの耳元で告げると、少し目が笑ったように見えた。
おばあちゃんは、まだ僕のことをおぼえているだろうか。

窓の外には、桜の木が見える。
季節は冬で、まだ固くて茶色のつぼみがついている。
会話をするでもなく、病室に置かれたパイプ椅子に座って、しばらくそこで過ごす。
相変わらず、隣の患者さんの低いうめき声が時々聞こえる。

そんなとき、母が、よれよれになった黒い小さな一冊のメモ帳を見せてくれた。
そこにはおばあちゃんが書いたらしい手書きの文字で、脈絡のない様々な言葉がたくさん書かれている。

はじめは、なんのためのメモ帳なのかよくわからなかった。
でもページをめくっていくうちに、それが何なのか気が付いた。
認知症になったおばあちゃんが、自分が忘れてしまいそうなことを、忘れないように書き留めるために使っていたメモ帳だった。

「すぐ忘れちゃうから困るのよ」と自嘲気味に言っていたおばあちゃんの顔が浮かんだ。

そしてページを繰っていくうちに、あるページに書かれた文字にくぎ付けになった。
そのページには鉛筆の走り書きで、ひと言だけ、こう書かれていた。


「〇〇さん結婚」


僕の名前と、結婚の文字。

そうか、忘れてしまわないように書き留めておいてくれてたんだな。

それを知った途端、僕はたまらなくなって、トイレに行くふりをしてちょっとだけ泣いた。

おばあちゃんは亡くなったのは、それからしばらくしてのことだった。

忘れてしまうこと、忘れたくないこと。
そして忘れられないこと。

夜中に目が覚めて、ふと思い出したので、ここに書き残しておこうと思う。

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