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二度と会えなくても、愛しています。

ようやく日常は、私にとっても日常として感じられるまでに戻ってきました。

それを思い知らされるのは苦しいことではありますが、愛しいと感じることは何と素晴らしいことなのだろうとも思い知らされます。

その日、私は仕事仲間とワインを飲みながら仕事談義に耽っていました。最近以前にも増して仕事が順調に進み、少しゆったりとした気持ちで取り組むことが出来るようになった頃です。その日はやや疲れていたこともあり、嗜むにはちょっと時間の早いワインは、香りを強く感じました。


18時15分。

「母です。お父さんが危篤状態です。」

久し振りの母からの連絡は、聞きたくないものでした。近いうちに来るであろう覚悟はしていましたが、直面すると恐ろしいものです。

母とは先月、実家に帰ったときぶりですが、連絡をくれたのは、実に10年以上振りでしょうか。私と母は、連絡を取り合うことが出来ません。幼い頃から所属していた宗教上の理由で今は赤の他人です。

父は、胃癌でした。それが分かったのは去年の年末。

既に定年退職をしていた父は、毎年の健康診断を受けなくなっていたようで、ほんの数年空いていた間に発病していたようでした。

「健康診断に行ったら、大変な結果が出ました。年が明けたら、抗がん剤治療も始めるから、来年は、大変な年になりそうだ。」

絵文字混じりで送られて来たその連絡は、どう伝えていいのか分からず少しおどけているようでした。笑い事ではありません。私は恐怖感でいっぱいでした。父は、これから毎日ずっと、ずっと痛い思いをするのでしょう。

正直こわい。

真っ向から向き合う事も出来ずに、まだ大丈夫なのだろうと見えないふりをすることに必死でした。

それから数ヶ月に一回ほどの、父からの報告が来るようになりました。
家を出たのが、23の時。
家族と別居するようにと伝えてきた教会の判断に多少の抵抗しかしなかった父に、私は見捨てられたのだと感じていました。

なーんだ、そんなに簡単に手放すのね。

時に愛おしく思い、時に恨めしく思いながらせっかくかけてきてくれた電話にも出ず。こちらから連絡を取る事なんてまぁ出来るわけありません。こんなことがあったからではありましたが、既に10年を超えてようやく父と向き合えるような気がしていました。それは、優しくしておけば良かったという後悔と、もう私を咎めることはないのだろうという安心感から。
こんな時まで、くだらないな私。


6月1日。

「6月19日から沖縄へ行きます。逢いたい人が有れば今の内に逢っておくようにと言われて、急遽決定したので」

それは、文字通り既に残された時間が少ないということを意味していました。

あぁ、もうそんなに進行しているんだ。

年始にした手術の際、癌は胃の中全体に広がっていて既に取る事すら出来なかったようです。父の胃はそのほとんどを切り取られ、取り切れなかった癌を体に残したまま、手術を終えました。後僅かな命を生きるには、そうするしかなかったのです。

父は、沖縄が好きでした。暖かく、ゆったりとした気候が好きだったのでしょう。新婚旅行も沖縄で、沖縄生まれの母は時々思い出したように「違うところが良かった」と話していました。

父は老後に畑を耕したりしながら海を見て過ごしたかったようで、中心地からやや離れたところには土地を持っていました。父と一番仲がよかった友人の一人は、若いうちに沖縄に移り住んでいて、彼の家の隣に父は土地を購入したのでした。そんな彼も胃癌で、彼が亡くなった後父はその家を引き取ったのですが、その家で過ごす沖縄での生活を老後の楽しみにしていたのです。

父は、寺田さんの闘病生活を知っていたので、自分がどうなっていくか、分かっていたはずです。想像しただけで、痛い。
こうなってしまってはもうどうすることも出来ない自分に、重くて黒い、嫌なものが降り注いで来るようでした。

「お土産は、ちんすこうでも良いかな?23日以降で都合の良い日連絡してね」

父と私は、食べ物の好みが似ています。炭水化物が好きで、口の中の水分が持って行かれるようなカステラや、喉が詰まりそうな、おばあちゃんが作るサーターアンダギーが好きでした。ちんすこうも、沖縄に行った時には必ず袋にいっぱい買ってきて、それはあっという間にふたりでたいらげてしまうものでした。

そろそろ、逢いに行かないと、これで最後かもしれない。

そういうことでした。癌なんて自分には縁のないものだと思っていましたが、これは現実でした。父は、もうすぐ私の前から、世界のどこからも消えていなくなってしまうのです。


6月29日。

「29日(金)においーで。」

「とりあえず、今日明日中にこ」

「こちらへ来なさい」

父が命令口調で話をすることはまずありません。私はいよいよ覚悟をしなければいけないということ。胸が押し潰されそうになります。どきどきするような苦しいような感情がここ毎日私を襲ってきます。
父は、相変わらず絵文字を交えて送ってくるのですがそれがなんだか、とても悲しくてたまらなかった。

その日、実家に帰るのは10年振り。私は少しだけおしゃれをしました。
父の状態がどのようなものなのか聞いてはいませんでしたが、癌の人がどうなるのか嫌でも想像はつきます。私は久し振りに会う父に、大人になった姿を見て安心して欲しいと思ったのかもしれません。父は、何か食べることは出来るのでしょうか。

その時は母と連絡を取っていなかったので、胃癌であることや詳細は知らずにいました。抗がん剤治療は、もう終えたのでしょうか。

甘いものが好きな父には、アイスを買って行くことにしました。ひとつ500円もするアイスをいくつか。

節約家の父は、あまり高価なものを好みませんでしたが、なんだか体に良いような気がして少し高級なものを選ぶことにしました。

食べる体力が残っているのかすら分かりませんでしたが、聞くことが恐ろしく私がそれを聞くことはまるで死を宣告しているように思えて、父とのやりとりの中で病気のことには何も触れずにいました。


生まれ育った家は、随分と田舎の方にあります。電車に揺られる間、私は魂が抜けたように頭がぼーっとしていました。何を考えていいのかすら分からない。

家は、丘の上にあります。電車を降りて、長い長い坂を登って行くと私の家があります。久しぶりに見る少し古びてしまったその家は、なんだか疲れているようでした。父が病気になってから、誰にも手入れをされなくなってまるでくすんでいるように見えました。

父も母もガーデニングが好きで、庭には様々な植物が茂っています。門には赤いデイゴが顔を覗かせ、椿が咲き誇り、白いユキヤナギが美しく垂れていました。まるでそんなことを忘れてしまったかのような姿です。私と姉が生まれた時に植えてくれた白樺の木も、もうありません。

その代わり、キウイのツルが伸び、門のところまでオレンジ色の花が顔を出していました。

もう戻ることはないと思っていたのに。

私を出迎えるのを嫌がっているようにすっかり姿を変えた玄関。母は出掛けているようでした。

まぁ、出迎えられるのも少し気まずいから、ちょうど良いか。

インターホンを鳴らすと、蚊の鳴くような細い声が返答しました。それが父でした。すっかりやせ細り、骨の形が見えるほど、頰はこけ、誰なのか分からないほどに声はか細いものでした。目の周りは窪み、虚ろに見えるその影は私の知らない姿でした。

「あぁ、あいちゃんか」

細いその声は、にこにこしていました。

「うん。大丈夫?」

そう言いながら、私の目からはぽたぽたと滴り落ちていました。

あー、たぶん止まらない。

口角は笑っていましたが、涙は止まってはくれないようでした。

「アイス持ってきたけど、食べる?」

「今なぁ、ポカリしか飲まれへんねん。アイスは、冷蔵庫へ入れといて。」

「わかったよ。」

久し振りに入る台所は少し増築されていて、私はぱんぱんになった冷凍庫の隙間にアイスの箱を押し込みました。ここで母とよくにぼしを剥いたっけ。

「暑かったやろ。なんか飲んだらええよ。」

「お父さんは?」

「冷蔵庫にトマトジュースあるやろ。それちょうだい」

父は、ほとんど切り取ってしまった胃のせいで固形物はほとんど食べることが出来なくなっていました。ポカリスエットと、トマトジュース。そして柔らかい炭酸せんべいを少しだけ。

父はリビングに敷かれた布団の上で、上半身だけ起こしています。病院が嫌いで家が大好きな父は、入院を最低限にしてリビングで過ごしていました。空調は、あまり効いていないようです。

「暑くないの?」

「今暑いかどうか、分からへんねん。」

体は、暑いのかどうか感じることもなく、汗もかかないようです。空調は母が管理しているようで問題ないようですが、体の機能がすっかり低下していることには頷くしかありませんでした。

父は、あぐらをかき直し小さなグラスに入れたトマトジュースを飲み干すと、炭酸せんべいを見ながら言いました。

「食べたいなぁ、と思うねんけどなぁ、食べられへんねん。かわいそうやろ。」

私が水を飲むのを見て「味がないのはいやや」と怪訝そうな顔をします。

食欲はあるようなので、余計に辛いはずです。たった半年で。

父は、自分がこのままの状態で生きていくのだと思っているようでした。

「胃癌はね、取ったら治るんやって。このままずーっと生きるらしいよ。先生が言ってたわ。でも寿命があるからなぁ、それが問題やな。」

癌に対する知識がない私にも、そうではないことは明らかでした。

途中、帰ってきた母はよそよそしく私に挨拶をします。

「あぁ、お疲れさまです。」

話しているうちに徐々に昔の母に戻っていきましたが、一応必要以上の会話をしないように気をつけているようでした。

「お父さんに聞いた?今ポカリとトマトジュースで生きてるんよ。」

母はどこか達観していて、普通ではあり得ない状況をまだ良くなった方だと言わんばかりの言い方をします。父はさっきと同じように胃癌は治ると説明していましたが、母はその後ろで難しい顔をして首を横に振っていました。

やっぱりそうだよね。

私は、父の話に頷きながら涙をこぼしていました。

「メールもなぁ、時間がかかるねん。」

父はパソコンが得意で、何でも器用にこなす賢い人でした。

私の苦手な機械操作や大工仕事が得意で、休みの日には大きなバイクに乗って走るのが好きでした。学校の授業参観にバイクに乗って迎えに来てくれる父が、誰よりも自慢でした。

マメな父は、沖縄の家の管理や病院へ行く日の予定なんかもスマートフォンにメモしているようで、それに時間がかかることを話してくれました。どういう訳か絵文字を使いたがるようで、それを探すのに時間がかかるようでした。

「メールするのになぁ、1時間もかかるねん。」

私に時々送ってきてくれる、あのメールに1時間もかけてくれているのです。ごめん。ごめんね。

たった二行程度の短いメールですが、それはわずかな体力を一生懸命使ったもので、横になりたいと思いながらも目を細めて絵文字を探してくれているものです。私はなんてひどいことをしてしまったのでしょう。

体が痛くて眠れなかったことを読んだ日には、私には返す言葉が見つかりませんでした。だからと言って何か一言、返せばよかったのに。父はどんなに悲しい思いをしたのでしょう。

私に出来たことは、ただ言葉を返すことだったはずなのに。

「ラインの方が、電話できるよ。」

こちらの方が簡単に出来ると思ったので、ラインの通話をやってみせました。

「なんや、簡単やなぁ」

父は嬉しそうでした。か細い声にもすっかり慣れてしまい、私も一緒に嬉しくなりました。

「こんなん出来るんかぁ」

父はおもむろに振り向くと、自分の財布の中からこっそり5000円札を取り出し私に渡しました。母に見つからないようにしているようで、なんだか嬉しそうにしています。

「交通費な。」

断る私に目配せするような顔をしながら渡してきます。節約家の父には、お小遣いさえも貰ったことがありません。
今出来る、精一杯のプレゼントなのでしょう。その嬉しそうな顔に、私は断る理由などありませんでした。

父は、父です。

私の幼い頃のままの、かわいくて優しい、私のお父さんです。

父の顔を見ることが出来るのは、あと何回でしょうか。

父の声聞くことが出来るのは、あと何回でしょうか。

話しながら、涙を流すのは、こんなにも難しいことなのでしょうか。

父が、私の涙に気付いていないことを祈りました。

私が、今一緒に住んでいる人がいることを伝えると、父は驚くこともなく、「連れてきたらええよ」と言いました。母は少し「えっ」という顔をしていましたが、私は予定を聞いてみると答えました。もし、また会うことが出来るのなら。

帰るまで、ほんの2時間ほど。

名残惜しいのは当然ですが、どうしていいかも分からず父も少し疲れたようだったので帰ることにしました。

「またね。」

来週か再来週ぐらいには、にーさんを連れてくるから。待っててね。

母は、父に駅まで送ってくるように言われ一緒に外に出ました。母が私とふたりで車に乗ることを避けたいということは分かっていたので、母にこっそり大丈夫と言いながら玄関を出ました。


部屋にいる父から見えないところまで来て、母は父の病状のことを話してくれました。

「もうね、体開けた時には、いっぱいになっててね。取りきれなくてね。」

母は言葉を詰まらせながらゆっくり話します。

「先生はお父さんにもちゃんと言ってるんやけど、なんか頭で理解できないみたいでね、自分は生き続けると思ってしまってるんやって。そういう患者さんは、多いみたいで、仕方ないみたい。」

なんて残酷なんでしょうか。あんなに頭のいい父が、今の自分の病状さえ理解せずに自分に都合のいいように解釈してしまうだなんて。そこまで生きたいという気持ちは、自分の思考を変えてしまうほど強いものなのだなんて。正直そんな状況信じたくない。

母の気丈さに、余計に感情が溢れます。母はこんな話をもう何度も、誰かと話したのでしょう。
何度も何度も、もう泣きはらしたのでしょう。

愛する人が弱っていくのを、見守ることほど辛いことはありません。
母は、強い人です。それはもしかしたら神様のおかげかもしれません。ちょっとだけ、受け止めてくれそうだったので、私は涙を堪えるのを止めることにしました。

少し声が漏れてしまいました。父に気付かれないように口を押さえると、ちょうど父が出て来たようです。

「今日は歩いて大丈夫なんかな」

母は、少し心配した様子で見ています。感覚が鈍っているようで、父は庭でもう何度か転んでしまったようでした。

にこにこしながら庭を歩く父は、私の知っている父の姿でした。

涙で輪郭がぼやけて、病気を患っているようには見えないほどでした。


にーさん、まだ連れて行ってないのに。

今週末、一緒に行く予定でした。


「来れるなら来てください」

母はまた、すっかり他人に戻ってしまっていました。

「市民病院で、6階。」

今から行くのに、1時間以上かかります。どうしよう。にーさん連れて行っても、いいのかな。

動揺しながら、にーさんに連絡をします。今日は会社の人と飲みに行くようでした。

「どうしようか。一緒に行こうか。」

会社の定時から一緒に行くとなると、22時を回るかもしれない。母に面会時間を確認すると「時間は考えなくてもいいって言われた」という返事です。

あぁ、いよいよかもしれない。危篤って、どんな状態なんだろうか。

今日のうちはまだ、大丈夫だろうか。

一緒にいる仕事仲間にもそれを伝え、落ち着くために違う話をしたり、少し冷静になるよう残っているワインを口にします。この時本当はすぐに飛び出して行きたいほどで、なのにちゃんと見送りしてからにしなきゃとか、そんなことを考えてしまいます。

なんでこんなに遠いところにいるんだろう。

「ごめん。帰らなあかんわ。」

「何着て行ったらいいんかな。」

しばらくして、堪えられなくなったのか、話している途中で、涙がわっと溢れ出します。

「あぁ、ごめん。ちょっと、泣く。」

堰を切ったように涙が溢れ、ひとしきり泣くことにしました。荒くなった息を整え、深呼吸をしながら、帰る用意をします。店を出て、仲間を駅まで送った、その少し後でした。



7月22日、18時56分。

「今、亡くなった」

感情が、呼吸を止めたようでした。

世界が止まってしまったようで、汗は引き、体も動きません。

父は、痛かったのでしょうか。

どうしよう。とりあえず、早く帰ろう。

涙を流したまま、電車に乗り、息を殺したまま、二駅を過ごします。だって、止まらないのです。

駅を降りると、にーさんからの電話でした。母だと思った私は、少し緊張して電話に出ます。

「大丈夫か」

にーさんの声を聞いた途端、わぁっと声が、出てしまいました。

さっきからずっと流れているのに、止め処なく流れる涙と一緒に声と感情が吐き出されます。

「大丈夫じゃないな」

「あのねぇ、亡くなったんやって。」

「?亡くなったん?」

自分の言った言葉に、それが真実だと思い知らされます。感情が体から出て行くのは、こんなにも痛いものなのでしょうか。

それから、家に帰るまで記憶はあまりなく、朦朧としながら準備をしました。

喪服の方がいいのだろうか。

今日は、帰るのか。

泊まるんだったら、どこに泊まろうか。


私は、お葬式というものを経験したことがなく、ただ少し慎ましい格好が好まれるような気がして、暗い色のワンピースを選びました。

汗をかきながら、髪を巻き直し、ハンカチを新しいものに替えます。

少し部屋を片付けて、ヒールじゃしんどいかな、かかとの低い靴を選びます。ちょっと落ち着いてきました。


私は、ゆっくりと呼吸をしながら、電車に乗っていました。

少しでも、父のことを思い出すと、涙が止まらなくなるので、必死です。

なんか、くだらないことを考えよう。

仕事のこと、明日のこと、何を考えても、あまり意味はありません。



7月16日。私の誕生日。

「又、入院しました。」

父は入退院を繰り返していました。

手術はしばらくしないようでしたが、検査入院や新しい治療を試したりするようでした。


「たぶん28日(土)なら大丈夫だよ」

にーさんを連れていく日にちでした。

私はカフェで仕事をしていた時でした。ラインのビデオ通話をしてきた父は、元気そうです。あの聴き慣れなかったか細い声にもすっかり慣れていました。
電波が悪いのかよく聞き取れずにいましたが、とりあえず顔は元気そうだったので、安心して通話を終了しました。


7月18日。

ラインでの着信が3回。

16時15分、17分、19分。出ることが出来なかった私は後で連絡をしようと思っていました。

まぁ、何かあったら、またかかってくるはず。

一度安心してしまうと、どういう訳か、その安心を信じてしまいました。父と話すことはもう二度と無いとも知らずに。


今日は実家ではなく、病院に近い駅まで電車を乗り継ぎます。どういう訳かネットで調べた時間よりも遅れるようです。

母は私の伝えた時間には駅に到着していて、車で待ってくれていました。駅から病院までは歩ける距離でしたが、母と会えるのももう最後かもしれません。父がいなくなってしまっては、生きている母と会うことももうないのかもしれません。今回は甘えることにしました。

10分も待たせてしまいました。車に着くと母は後ろに乗るように言います。

あまり悲しい顔をしないようにしながら車に乗ると、母はあまり感情を出さないようにしながら話してくれました。

「あのねぇ、一昨日ぐらいまでは病院でも元気やったんよ。それが痰をいっぱい出すようになってね。」

私は頷きながら少し近くに寄ります。

「今日会いに行った時もそんなんやってね、しんどそうやったんやけど…しんどい姿見るのって、いやよね。おばあちゃん迎えに行かなあかんから、夕方一回帰らなあかんしね、一回帰るね、って言って、病院の駐車場に出た時に、電話があってね。容態が急変して、危篤ですって言って。」

母は呼吸を整えるようにしながら、今日の様子を話してくれます。

私の知らない苦しむ父の姿を、母はずっと見てきたのです。

「病室に戻ったらね、苦しそうな顔しててね、触ったら足が冷たくってね、何も食べてないからむくんでたんやろうね。先生に、足マッサージしていいですかーって聞いて、お姉ちゃんとクリーム付けて、少し揉んでたら、ちょっとあったかくなってきてね。眉間のしわもなくなったから、楽になったと思うんやけど、それからすぐやったわ。」

父は最後の最後痛みが引いたようで、しばらく眉間に寄せていた皺も解けるように安らかな顔になったようです。癌の人は、痛みに耐えるようにして辛い顔をしながら亡くなっていく人がほとんどのようで、先生は「よかったね」と何度も仰ったそう。

私も少し平常心に戻りつつありました。母に労いの言葉をかけてもいいのかどうか、何かを言うタイミングを見計らっていましたが、結局何も言葉になりませんでした。私が言うべきではないのかもしれませんが、母はそれを待っているように感じたのでした。

ごめんね。


病院は、私の知っている頃から新しく建て替えられていました。夜間入り口から警備員さんの前を通り、病棟に上がります。母には話したいことが沢山あるのに、病院の静けさに押されて言葉が出てきません。

母は、私とふたりでいる時は仲の良かった頃に戻ります。

私はどれだけ母に悲しい顔をさせたのでしょうか。
きちんと謝ったことは、あったでしょうか。
何度も裏切り、それでも変わらないのは母だからです。
それでももう戻れないことは分かっています。


病棟は末期患者のものでしょう。静かで、綺麗すぎて少し不気味に感じてしまいます。

開けてくれた先生の案内で、病室に向かいます。心臓がどきどきと音を立てるようです。

「お姉ちゃんがいてるわ。ちょっと待ってね。」

姉は、あれから私と一度も会っていません。姉も一度病魔に倒れ、時間をかけて回復していったようですが、父は同じように回復することは叶いませんでした。

病室には、病院でよく見るものの、わずか半分ぐらいの幅のストレッチャーが置かれていました。

それにすっぽりと、収められていたのが父でした。
こんなに小さくて、細いところに。

途端に涙が溢れました。

小さいなぁ。こんなにも、ちっさくなって。

油断すると、声をあげてしまいそうになります。

「なんかねぇ、眠ってるみたいでしょう。」

映画でも見ているかのようです。
安らかないつもの顔をして、父は息をしていませんでした。
いつも、そんな顔して、寝てたのに。

母は、父の頰を触りながら、ため息をつきます。

「まだねぇ、ちょっとあったかいんよ。」

ハンカチで顔を覆いながら、私も父の顔に触れます。

あったかくないよ。冷たいよ。

思いのほか柔らかく感じましたが、父の肌は冷たく、まるで人形のようでした。
触れると、余計に色々なものが込み上げてきます。声が漏れてしまいそうで、息を整えて深呼吸を繰り返します。

先生が葬儀屋さんが来たことを伝えに来て、姉は、葬儀屋さんを迎えに部屋を出ました。母もそれに続いて行きました。

もう葬儀屋さんって、来てるものなんだ。

声を殺しながら、父の額に触れます。
お父さん、まつげこんなに長かったっけ。

白い髭が、少し伸びていました。

すっかり、おじいちゃんやなぁ。

父の顔には、もう化粧が施されているようでした。

少しお粉を叩いたようで、さらさらしています。


ねぇ、痛かった?

ねぇ、電話出れなくて、ごめんね。

ねぇ、私のこと、ちゃんと思い出した?


私は、父の顔にそっとキスをしました。



ドアが開き、バタバタと人が入って来ます。

姉はテキパキと葬儀屋さんに指示を出しています。何だか、すごいなぁ。

葬儀屋さんは挨拶をして、父の顔に白いレースの付いた打ち覆いを掛けます。私と母は黙ってそれを見届けて、後のことは姉に任せていました。

母は打ち覆いのレースの端っこを持って、ぱたぱたと仰ぐようにしています。

「こんなん掛けたら、苦しいやんか。なぁ。」

ふうふうと、息を吹きかけるようにしている母が、愛おしくてなりません。それを見ている私は、何だか幸せでした。


父は、葬儀屋さんの車に乗って行きます。私たちはその後を付いていくようです。父は、まるで荷物のように車に乗せられてしまい、それを見てまた涙が溢れ出します。

葬儀は、一番簡易なものにするようです。宗教上の理由もありますが、父の意向でもありました。
散骨を希望するほど、死後のことには興味が無い人です。そういえば、自分が死ぬとも思っていないようだったので、遺書も書いていないでしょう。

葬儀はたったの16万でした。お骨も拾いません。

お骨なんて持っててどうするの、と思っていたこともありますが、自分の家族が亡くなってそれが全て無くなってしまうのは、どう考えても悲しいことでした。

そうか、もう終わりなのか。


すっかり遅い時間になってしまったので、明日一日寝かせておいて明後日の朝火葬をするようです。

父は葬儀場の部屋に、お布団を敷かれて眠っていました。

「床はかなんからな、最後に足伸ばして、ゆっくり寝るぐらいいいやろ。」

葬儀屋さんは、クリスチャンの立場を分かっていてそれに話を合わせてくれているようでした。

父は、本当に、ただ眠っているようでした。

こんな光景、何回も見てる気がするなぁ。

さらさらした髪が、クーラーの風に揺れています。
明日はクリスチャンの方が顔を見に来るとのことです。
私は排斥された身なので、側にいない方がいいでしょう。

私のお父さんなのに。

父はクリスチャンではありませんでしたが、特に反対することもなく、当たりのいい人だったので、クリスチャンたちからも好かれているようでした。

私がいると、母も気を遣うでしょう。

母は、私が気まずい思いをするかも知れないからと、言葉を選びながら説明していました。

「大丈夫、わかってるから。」

その日は終電で帰りました。田舎から市内へ向かう電車は、当然のように空いていて、泣いてもいいんだよと言われているようでした。

夏祭りがあったのでしょうか、浴衣を着た女の子が大きな声で喋っていましたが、それも聞こえないほど頭の中はいっぱいでした。


私が思い出せる父の姿は、ほんの少しでした。
父は、夜勤の仕事をしている期間が長く学校から帰ったら寝ていました。
幼い頃、なぜかたこ焼き屋さんを家のガレージでやっていましたが、それが転職活動中のことだったと知ったのは、大きくなってからでした。
何でも器用に出来て、私の夏休みの工作の宿題を手伝いたがってわくわくしていました。

破片しか見つからない。

父は、大人になってからの私をあまり知りません。

私がコーヒーにのめり込んでいたことは知っていますが、父はドリップバッグで3杯目の、薄い薄いコーヒーしか飲めませんでした。
コーヒーを辞めたことも、神戸に住んだことも、京都に住んだことも、また大阪に帰って来たことも知りません。

家を離れてから、10年も空白でした。

父は、私が娘だったことを忘れたことはあったのでしょうか。

私は、父が私のお父さんだったことを忘れたことはあったのでしょうか。


その夜、12時を過ぎて帰った頃には、にーさんはまだ帰っていませんでした。家に入り、誰の目も気にせず泣きました。

大声をあげて、しゃくりながら、子供のように泣きました。

こんなに声をあげたところで、お父さんは帰ってこないのです。

泣き疲れて、大人しく明日の用意をし、少し仕事をしました。

どうして、今日仕事なんて出来るんだろう。

こういう、どこか冷めている自分に、よく苛立ちます。
すっかり涙も引いて、いつもと同じような夜を迎えていました。
にーさんはそおっと帰って来たので、とりあえず布団に潜って隠れるようにして待ちました。

にーさんは、何も言わずに、布団の上から私の上に乗りました。

こういう時に、慰めてくれる気持ちがあるだけで私は幸せです。

「ごめん、ごめんな。」



7月23日。

「明日、10時半には、火葬場に向けて出発するようです。着いたら連絡してください。迎えに行きます。」

母からのメールでした。

母は、いつも通り、他人のようです。

私は、何か形見が欲しいと催促しました。
母が興味ないようなものなら、いいかな。

母は、父の選ぶ機能性重視のものがあまり好きではなく、それを知っていたので腕時計が欲しいと言うことにしました。華奢で可愛いものが好きな母にとって、父のチョイスは、ややずれていました。
そのやりとりが、子供ながらに羨ましかったものです。



翌日、7月24日。

父は、この世から姿を消します。

暑い、暑い日で、駅に着くまでにすっかり汗をかいてしまいました。

どうせ泣いて崩れるだろうけど、最後のお別れなのできちんと化粧をして、お父さんが文句を言わないような、慎ましい服装で向かいます。
駅に着くと、もう母が待っていました。今日は、時間通りです。

車に乗ったところで、母は父の時計を見せてくれました。

「とりあえず全部持って来たけど、こんなんいる?」

「一応、もらっておくね。動かへんかったら、電池入れるし。」

父の時計はどう見ても機能重視の、どう考えても母が持たないようなものだったので少し安心しました。そのうちのひとつの、まだ動いているものを私の腕に着けます。


火葬場に行く前には、少しだけお別れが許されます。

葬儀場の手前の部屋に、既に棺桶に入れられた父がいました。
顔を見ることが出来るのは、小さな窓からです。
一昨日よりも、頰はこけていました。水分が少し抜けて、へこんでいるのだそうです。

なんだか、誰か、違う人だったらいいのに。

父は、どうしてもう死んでしまったのでしょうか。少し、早過ぎます。


「もう今年幾つになるの?」と言う母の問いかけに、父は「まだろくや。」と言っていました。

そんなこと隠さなくてもいいのに。

私はどうしてもう少し、一緒にいられなかったのでしょうか。

家族が一緒に過ごしてきた10年は、私にとっては空白です。

後悔したところで遅過ぎます。


今日は、仲の良かったいとこ家族が来てくれています。

私は挨拶もそこそこに、ずっと泣いていました。何を考えて泣いていたのでしょう。涙は流れるばかりで、何が頭をよぎったのか全く覚えていません。

もう二度と見ることの出来なくなる父の顔を、目に焼き付けるのに必死でした。

私はもう10年も時間を失っているのです。

父がまだ、今まで通り元気で生きていたら、一緒に過ごせたのでしょうか。

会って、ちゃんと話をしていたのでしょうか。

それは先延ばしに、今までみたいに、ずっと先延ばしにしていたのかもしれません。

そうなのだったら、良かったのでしょうか。


火葬場に着いた父は小さな箱の中で、顔は透明な板で遮られていました。なんだか、ショーケースみたい。それは人がいるべきところじゃない。

感情がまた溢れ出します。


父は、燃えてなくなります。

綺麗な髪も、長いまつげも、高い鼻も、全部、ぜんぶ。

この世界から、いなくなって、燃やされて、そのかけらまで、捨てられてしまいます。

私は何にこんなに泣いているのでしょう。

涙は、どうしてこんなにも出てくるのでしょう。

こんなにも痛い、絶望は、どこかで覚悟していたはずなのに。それなのに。


帰り道、私は人と会う約束をしていたので母とは話もあまりせずに、お別れをしました。その少し後には、私は友人と会話を交わし笑っているでしょう。

この数日が、どんなに息が苦しいほど辛いものだったとしても、明日からまた毎日は続いていきます。

ふとした時に、それは思い知らされます。

そしてまた、自分を責めたり後悔したりするのです。

私は、これまでいくつもの絶望を感じて来ました。
それは、他の誰かからしたらちっぽけなもので、通るべき当然の道なのかもしれません。
まだ私には、経験や覚悟が足りなかったのかもしれません。
多分、愛する誰かに思いを感じてもらうのには、この命は短すぎるのかもしれません。
でも、懲りずに誰かを傷付けたり、悲しませたりするのかもしれません。


ただ、お父さんのことを、忘れることは今までも、この先もずっと無いのでしょう。

からだがどんなにぼろぼろになっても、どんなに離れた時間が長くても、お父さんは、世界で一番私を愛してくれた人だから。

私は同じ愛情を、大事な人に注ぎたいと願って止まないのです。

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