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「民族音楽の世界的普及」はありえないのではないでしょうか

前回書いた「西洋音楽は特殊なのかもしれない」の続きになる話です。
そちらもご覧いただければ今回の話の理解が深まると思います。

東日本大震災の年の夏。 せめてもの応援だと思って福島のある街へ旅行へ行きました。
風評被害で観光産業は大打撃を受けていたので、とても歓迎してもらいました。
その中で、音楽的に貴重な体験をしたのです。

毎晩、宿のご主人や他の宿泊客(と言ってもあと1人)とお酒を飲んでしました。
ある晩、宿のご主人に「延泊して祭りに行かないか。自分は婿養子でこの商売だから祭りに参加できる機会がなかった。今年は貴重なチャンスだから行きたい。一緒に行こう」と言われたのです。
もちろん二つ返事でお願いすることにしました。

祭りの晩、かつて商業で栄えたというその街の祭りは盛大で、かつ観光客がほとんどいないプリミティブなものとなりました。
そんな祭りの体験は新興住宅地育ちの私には貴重なものだったのです。

そして町中を周った山車が、広場に並んでクライマックス。そして各地区に戻った深夜、祭りは終わった…と思いました。
しかし、祭りの本番はそこからだったです。

山車の近くで誰かが笛を吹き始めると。その地区の人々が言葉もなく家から自然と出て集まり、山車を囲んで笛を吹き始めたのです。 子供も老人も関係なく。
驚きの体験でした。同じフレーズを繰り返すそれは長時間というわけではないのですが、なんとなくインドネシア、バリ島のケチャを思い出しました。
そして時が経つと各々散らばって去っていきました。その間、ほとんど言葉はありませんでした。

宿のご主人は、外国人の子と一緒に眺めていました。
「こいつも俺もよそから来たから笛が吹けないんですよ。ここでは笛を吹けないと子供達から馬鹿にされます」 とのことでした。
私は一抹の疎外感を味わいながら、幻を見ているような気がしました。

今、思い出しても驚きの体験でした。
その時に思ったのですが、民族音楽、民俗芸能というものは、その土地に生きて、その土地の神や祖先を信仰し、その場所の、その時でなければ、真の体験はできないのではないでしょうか。

観光目的のものや、西洋音楽に合わせたものは、そのエッセンスだけであって、本当のものではないのだろうと思いました。

その経験から「民族音楽の世界的普及」はありえないのだろうと思った次第です。

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