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「○○」は不自由だ~人を縛り付け、制限する「○○主義」について

担任3周目あたり、年齢でいうと
アラサー後半くらいからでしょうか、
くれぐれも気をつけねば・・、
と戒めていることがいくつかあります。

その一つは、たとえば、

深さであるとか、
ものごとの理解だとか、
センスとか、
長い時間をかけて
(自分なりの成功と失敗を繰り返して)
理解できた自分なりの価値観を
そのまま「正解にしない」ことです。

実際、
「若い時には理解できなかった」こと、
ひたすら量をこなしていくことで、
これは無駄だったんだ!と気づいたり、
周囲の意見に真っ向から対立することで、
ようやく手に入れた自分軸だったり、
生徒(あるいは保護者)と、
言葉が無くとも、たしかに通じあう感覚。
こういったものが、
自分の実感として確かに存在していることは
事実です。
苦労して手に入れた分、
ことさら仰々しく教えたいし、
なんなら自慢もしてみたい。
飲み会の席で、意見を求められたら、
嬉々として語ってしまうだろうと思います。
実際、語ります(苦笑)。

でも、それを「答えだ」と思って、
それをお題目のように信仰するのは、
よくないのでは??

得意になって鼻が高くなりだしたら要注意。

むしろ「答えを得る」のは、
停滞の始まりではないかとすら、
思うようになりました。

特に時代の変化の激しい現代、
複雑系の世の中にあって、
「これが答えだ!」と小躍りしていたら、
痛いしっぺ返しを食らうんだろうな、とも。

一つの、たとえ話として言い換えてみます。
長い間、教師としてキャリアを積み、
名人達人と呼ばれるような人がいたとして、
その人もやがて年を取ります。
年を取れば、当然、体力も衰えるし、
叱るとか、褒めるとか、
子どもと関わるエネルギーも
洗練というと聞こえはいいですが、
若い頃の、ほとばしる感じはなくなるでしょう。
(よいも悪いもありません、あくまでたとえです)
そして、その達人を慕うお弟子さんたちも
年を取るから、
「洗練された」
「達人のような」
指導を喜びます。

達人も、お弟子さんも、
一つの教育の到達点を、理解し合い、認め合い、
目の前の生徒に施していくことでしょう。
やがて、その学校は、一つの教育手法が
お題目として尊ばれます。
そして、本当に良い教育のできていない
よその学校を嘆き、
「(よそのところは)わかってないな、なってないな」とぼやきます。
そういう場があることは、
まったく構わないのですが、
僕は学校という学びの場には、
洗練とは程遠い
「間違い」や
「余計な出来事」や
「毒」こそ必要なんだと思うのです。

洗練とか、
達人名人とか、
もっといえば、
「正解」という価値観に対して
不断の警戒心をもっていないといけません。

だって、
なにかを「正解」にすることは、
他のものを「不正解」と区別することですから。

その点、今年読んだ本で、
目からウロコだったのは、
この本でした。

否定しないこと。
これを実践するようになって、
僕の生徒理解はかなり進みました。
肯定もしすぎはいけなかったんですね。
肯定も否定もしない態度を貫くことで、
見えなかったものが見えることがありました。

冬休み、
よかったら手にとって読んでみてください。
もちろん、
僕の意見が「正解」ではないのですが・・。

常に、
違和感を取り込めるよう、
そして、
「間違い」「余計な出来事」や
「毒」があっても
常にご機嫌に、
ごく自然に振る舞えるように
日々精進です。

PS.
それにしても、
いつまで日本の受験は、
「正解」「不正解」を問う
問題を出し続けるのでしょうね。

最後までお読みいただきありがとうございました。読んでくださったあなたの少しでもお役に立てたら嬉しいです。

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