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#13 「 とっておきの海 」

わたしたち家族は2,3年に一度、パパとお母さんが生まれ育った福岡の小さな町に行く。
パパとお母さんは”帰る”って言うけど、ずっと東京で育ったわたしには”行く”のほうがしっくりくる。
「来年は美優の大学受験もあるし、今年帰っとかないと間が空くからさ」
まだ梅雨に入って間もない6月だというのに、パパは8月のカレンダーに赤く丸印をつけていく。
「みんなで帰るのはいつ以来だ?」
「美優が中学2年生の時だから3年振りね」
お母さんがチョコレートの銀紙を剥く手を止め、指を折って答えた。
「もうそんなになるっけ?俺はこないだ出張で寄ってるから1年ぶりなんだけどな」
テンションの上がったパパをみて、呆れたようにお母さんが笑う。
「じゃあさ、わたし、あの海に行きたい」
わたしは3年前に連れて行ってもらった”あの海”をリクエストしてみた。
「ああ、あそこか。いいねぇ」
パパが大げさなリアクションでわたしを指差す。
「車がないと行けないけど、どうするの?」
お母さんはいつも冷静で現実的だ。
「いいさ、レンタカーでも借りればいいだろ」
パパは5つの丸を書き込むと赤マジックにキャップをした。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

中学2年生のわたしは、不安定だった。
家にいても、学校にいても、誰かといても、誰もいなくても、いつもイライラしていた。

原っぱのような広場に乗り入れて車を止める。
入口の脇には売店みたいなボロボロの小屋があるけど人の気配はしない。
ドアを開けて車を降りた瞬間、熱い空気で息苦しくなる。
「もう!なんでこんなに暑いのよ!」
悪態をつくわたしに、
「夏だからに決まってるでしょ」
ピシャリと、お母さんが応える。
わたしたちを横目に苦笑いするパパは、ボロ小屋の柱にくくられた募金箱のような木箱に500円玉を入れて歩き出した。
お母さんに背中を押されたわたしは、不貞腐れた顔でその後についていくしかなかった。
ふた又の分かれ道、鳥居の横で小さな看板が案内する神社の方ではなく、緑の葉が茂っている林の中に足を踏み入れる。
細い道は土と石が剥き出しになっていて、時折、小石に足を取られながら歩いた。
ゴールの見えない、知らない道を歩くと時間が伸びるように思える。
形のないもやもやが胸の中に沸き立ってくる。
時計を見るとまだ5分も経っていないのに、
「パパ!まだー?」
と、ちっちゃな子供みたいに不満をぶつけた。
「もうすぐだぞ、ガンバレガンバレ」
パパはわたしの不機嫌は意に介さず、逆に面白がって両手を叩いてみせる。
それがまた、わたしをイライラさせた。

10分ほどの間、わたしたちは会話もせずに黙って歩いた。
道は下りから緩やかな上りになっていた。
3人がそれぞれ手に持ったタオルハンカチは、たっぷりの汗を吸ってベタベタしている。
「ほら、波の音が聞えない?」
後ろを歩いていたお母さんが、閉じた日傘の先でわたしを突っつく。
そういえば潮の香りも濃くなったような気がする。
「うひょー!」
パパが素っ頓狂な声を上げる。
それにつられて、わたしは思わず小走りになってしまった。
「うわっ!」
変なところから声が出た。
うす茶色の岩場の上に立つ白い灯台、その向こうはどこまでも広がる海。
こんなに海らしい海は、生まれて初めて見た。
「やっぱり、きれいねぇ」
日傘を半分わたしに差しかけてお母さんが言った。
「え?お母さん、来たことあるの?」
「あるわよ。美優も小さいときに、3歳くらいだったかな、一緒に来てるのよ」
わたしはまったく覚えていない。
「覚えてないでしょうね」
バックから麦茶のペットボトルを取り出すと、
「ちょっと休憩しない?」
そう言って、屋根のある休憩所にわたしを誘った。
パパはわたしたちを放ったらかしにして、灯台のそばでスマートフォン片手に写真を撮っている。

「もう少し冷たい方がよかったな」
ぬるくなった麦茶は、それでも十分に美味しかったけれど。
「あら、そう?じゃあ飲まなくていいわよ。わたしが飲んであげるから」
ペットボトルを取ろうとするから慌てて胸に抱くと、お母さんは視線を海に向けた。
「あなたが海に入りたいって言い出したのよ」
さっきの話の続き・・・だ。
「お盆も過ぎて、そこらじゅうにクラゲが浮いてるのが見えたからやめときなさいって言ったんだけど、あなた、言い出したら聞かないから」
キャップを捻ってひと口、口に含んだ。
「そりゃあ見事に盛大な駄々をコネはじめてね」
頬っぺたが熱くなった。
「そしたらパパが、よし!行こうって。あなたを抱いて膝くらいの深さのとこまで海に入って行ったの。波打ち際でクラゲを避けてちょっと足を浸けさせればいいのに、バカだから」
「バカって。なんでパパはそうしなかったんだろ・・・」
「あの頃は仕事が忙しくてね、あまりあなたにかまってあげられてなかったから、ご機嫌を取ろうとしたんじゃないの?」
思い出し笑いが漏れる。
「それで、あなたの足先を水に浸けたかと思ったらすぐに抱き上げて、急に大声だしてバタバタし始めて。叫びながら戻ってきたの。膝から下を真っ赤にしてね」
わたしにも笑いが移った。
「あなたはビックリして泣き出すし、パパは痛さで車の運転ができないって言い出すしで、10年振りくらいでわたしが運転させられて帰りはヒヤヒヤもんだったわ。散々な夏休みよ」
「そんなこと覚えてないよ。写真とか無いの?」
「それがね、写ルンですを持って行ってたんだけど失くしちゃったのよ。この辺りの海に沈んでるかもよ?でも、いいの。パパとわたしが覚えていれば。それでいいのよ」
お母さんがそう言って右手を差し出すから、わたしはその手を握ってみた。
「やだー、違うでしょ。お茶ちょうだいよー」
笑いながら、でも、握り返してくれた。

「おーい!真知子ちゃん、美優っ!写真撮ろうよ」
パパが大声でわたしたちの名前を叫びながら手招きをしている。
「美優、行かない?」
お母さんは、返事は分かってるけど、って感じでわたしに訊く。
「いい。行かない」
「そう。じゃあ、その辺で遊んでらっしゃい。崖から落っこちないようにね」
そう言い残してパパのところまで歩いて行くと、チラチラとこちらを気にしてるパパの腕を引いて灯台の向こう側に消えていった。
わたしは屋根の日影から出て、もっと見晴らしのいい場所を探そうと灯台とは反対方向の岩場を歩いてみる。
少し行くと、海に突き出したテーブルみたいな岩場を見つけた。
平たい場所を選び、膝を抱えて座った。
平日だから人の影はない。
貸し切りの海だ。
決して交わることのない空の青と海の青が、そのコントラストで水平線を引いている。
海と空と、沖を行く大きなタンカーと小さな釣り船と、点のような海鳥と白い入道雲が目の前にある景色の全て。
波の音と海風だけが耳を満たす。
さっきまであんなに憎たらしかった太陽の日差しを気持ちよく感じてた。
命あるものは海から生まれた。
生物の授業でそんな話を聞いたような。テレビだったかな?
人はどこから来て、どこに行くのだろう?これはマンガのセリフ。
夏休みもあと1週間で終わるのか。
帰ったら残りの宿題をやなきゃ。急にリアルになる。
図書館で借りてた本の返却日はいつだったっけ?そもそも読めてない。
なんで今、そんなことを考えるんだろうってことどもを、ぼんやりと頭の中でなぞっていた。

パシャ。
その音に振り返ると、パパがスマートフォンのレンズをわたしに向けていた。
「もう!写真なんて撮らなくていいから!」
頬を膨らますわたしを無視して、パパが隣に腰を下ろした。
「どう?パパのとっておきの海は」
そう聞いておきながら、自信満々の横顔が癪に障った。
でも、
「まあまあ、いいんじゃない?」
そう答えるしかなかった。
「そうか。気に入ってもらえたみたいで良かったよ」
パパは満足そうな顔をしている。
「真知子ちゃんと初めてデートしたのがここなんだ。その時に告白して、付き合い始めて、今に至るっていう・・・」
突然、何を言いだすんだろうと思った。
「だからさ、大きくなった美優にいつか見せたいなって思ってたんだ。」
パパは明後日の方向を見ながら話していた。
勝手に独白して、勝手に照れてる。
「でさ・・・」
パパは水平線の辺りを指さして、
「あのあやふやな区切りに線って名付けた人は誰なんだろうね?」
いやいや、せっかくいい話しをしてたのに。
これ以上は付き合わなくてもいいやと思った。
「あ、お母さんは?」
わたしは話の向きを変える。
「え?真知子ちゃん?砂浜で水遊びするって降りて行ったよ」
「じゃあ、わたしも行ってくる!」
わたしは立ち上がってジーンズのお尻をはたいた。
「クラゲがいるかもよ?」
パパも立ち上がってお尻をはたく。
「大丈夫。クラゲはパパに任せるわ」

◇  ◇  ◇  ◇  ◇

あの日を境にわたしは平穏な生活を取り戻した。
・・・なんてことは全然なくて、結局、高校1年生の1学期前半くらいまではもやもやを引きずって日々を過ごした。
ただ、それが溢れそうになるとあの日見た水平線のあやふやさと確かさを思い出した。
「線を引くのは自分だ」と思う時、少しだけ楽になった。
3年経った今となっては、なんであんなにイライラしていたのかが不思議に思えるから不思議だ。

赤いレンタカーに乗ったパパが戻ってきた。
田舎で過ごす4日目、明日は東京に帰る。
クーラーボックスには冷たい麦茶とコーラのペットボトルを入れた。
ネコばあちゃん(パパのお母さん)が作ってくれた梅と鮭のおにぎりもバックに行儀よく収まってる。
パパはレンタカーのオーディオとスマートフォンを繋げて、岡村ちゃんとかいう歌手のノリのいい曲を流す。
ママが「うるさい!」と言ってボリュームを下げようとするけど、パパが譲らないから両手の人差し指を耳に突っ込んで抗議する。

あの日より今日の方が空は青い。

「では、行きますか!」
パパが上機嫌でアクセルを踏む。

とっておきの海へ。


< 了 >




#海での時間

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