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ジャーナリングと「心臓の知性 (Intelligence of Heart)」の隠された関係

まえがき

noteへの投稿をもとにした『構想力ジャーナリング入門』というテクストをkindleそしてオンデマンドで配信・発刊しています。このテクストは本というよりメタテクスト、つまり自分が過去に書いたものを振り返りながら、それらが編集されていくというプロセスから生まれました。これはジャーナリングという方法でメタ編集されたジャーナリングです。下記ではその背景について触れつつ、「心臓の知性」というコンセプトのつながりについて記します(紺野登)。

『構想力ジャーナリング入門』オンデマンド版登場

知性のマルチバージョン化

AIがわれわれの日常に深く浸透しはじめてからというもの、知性や知能(intelligence)のありかたが大きく変わった。大脳新皮質の機能(知能)とされる論理や分析はもうAIのほうがすぐれている。シンギュラリティ予測(2012年「トポス会議」より)が現実になれば、人間からこの種の知能を除けば何が残るのか、あるいは新たな融合知性が生まれるのか・・・といったことが、日々世界中で議論されている。知性とは何かという古(いにしえ)よりの問いが、AIの指数関数的進歩により新たな装いで我々の前に現れている。

知性のモデルについても、地球人類以外の知性がこれまでもさまざまなかたちでSF的に描かれてきたが、2008年刊行の中国SF『三体』はその壮大なスケールで世界的ベストセラーとなり、地球外知性への視界がまさに異次元的に開かれた感がある。知性という概念の拡張ということでいえば、現代SFの巨匠スタニスワフ・レムは『ソラリス』で「海」を知性をもつ巨大な存在として描いていた。他方、汎心論(生物・無生物に関係なく宇宙に偏在する心のようなものがあるという宗教・哲学観:つまりAIにも心が?)が21世紀に入って再度脚光を浴びるなど、心脳問題への関心も高まっている。17世紀にデカルト(やガリレオ)が知性や意識を曖昧模糊としたものとして科学的研究の対象から外して棚上げして以来、無視されてきた「心」の問題があらためて問われるようになっているのだ。心脳問題の「脳」のほうも、物質としての解剖学的な脳の研究は躍進しているものの、日々刻々と進歩するAIを前に混沌としてきているようにみえる。ディープラーニングは犬が土中の骨を必死に探し出すようなものだと、人工知能を「動物知脳」になぞらえる言説が話題を呼んだりと、いまやいろいろな知性のバージョンが生まれてしまった。伝統的な人間の知性や知性主義は風前の灯火だ。

創造的ディスキリング

人間の知性を脳の構造に対応させて理解することは古来より行われてきた。大脳新皮質は論理的知性、大脳辺縁系は感情的知性、脳幹・脊髄系は本能的知性といったように、人間の精神のはたらきである知・情・意は脳の構造に対応している(紺野『イノベーション全書』より)。
実はこの3つの部分からなる脳のモデルはピュリッツァー賞を受賞した科学者のカール・セーガンの『エデンの恐竜』によって広がったのだが、そのソースは1960年代に提唱された医師で神経科学者のポール・マクリーンの「脳の三位一体説」だ。
この説は後に脳神経学者から大変な批判を受け、おそらく彼らからはまったく支持されていないが、それでも他分野からは根強い支持がある。現代の神経人類学者のテレンス・ディーコンがマクリーン仮説への誤解に「捨てられたけど、まだ説得力のある理論」だとコメントしている。要は3つの脳の考え方は古代からの知識だったのをマクリーンは臨床的に「(再)発見」した。ただこれが脳のダーウィン的進化論(脳の構造が階層的に高度化して人間が進化の先端にある)に沿ったものであったので、のちに解剖学的な見地から、その脳の生体的な構造の進化論が否定された。しかし脳と意識との関係でみるとこれらの否定的な知見は答えをまだ見出していないのだ。それだけこのモデルは意味がある。

さて、この若干怪しい脳のモデルに沿ってみれば、Chat GPTは人間の大脳新皮質の能力(IQ:Intelligence Quotient)を上回るし、ロボットや合成生物学ではわれわれの身体的能力を上回る(脳幹・脊髄系を合成・代替する)ので、残るのは感情知性だということになる。しかし、EQ(Emotional Intelligence Quotient)や幸福感は重要だが、大脳辺縁系の働きは動物にも通ずる、情緒的なアルゴリズムに展開される。汎心論的に考えれば、物体であるロボットやAIにも幸福などの感情がありえる。つまり結果的にシミュレーション(操作)できてしまうだろう。じっさい、グーグルのAI言語システム「The Language Model for Dialogue Applications」(ラムダ)のエンジニアは、ラムダの背後に、感覚のある精神が存在しているかもしれないと発言し、物議を醸した

では人間に残されるのは何か?

サンタクララ大学の応用倫理のためのマークラ研究センターの記事などはAIが本当に奪うのは仕事(職)でなく、労働における道徳感(モラル)だと示唆している(この記事ではモラルを失った社会をブリューゲルの風刺画で喩えた)。

「コカインの国」(怠け者の国)Pieter Bruegel the Elder. (2023, April 13). In Wikipedia

意思決定をAIに委ねるようになれば、人間が、道徳的、倫理的な判断をみずから下す力は、徐々に衰えていくだろう。では何がほんとうに何が残るのか?
2022年10月、英国議会貴族院はロボットアーティストAi-Daを招聘した。Ai-Daはエリザベス2世のプラチナジュビリー用の肖像画を制作したり、個展を開いている著名アーティスト。彼女はAIの未来について講演した後、議員の質問に答えた

Ai-Da Robot wearing Edeline Lee, at Abu Dhabi Art, Abu Dhabi. Photo taken with an Osmo camera on 20 November 2019.

「あなたにできないこと(限界)は何か?」

この質問に対して、彼女の答えは「残るのは主観的経験と意識」だった(日本創造学会2023講演「創造的ディスキリング(Creative Deskilling)」より)。
シェイクスピアの「ハムレット」が自己に対する批判的意識をもつキャラクターとして登場して近代悲劇を生み出したように(小林秀雄全集-第11巻)、人間よりも世界や宇宙を憂うAIがでてきてもおかしくない。リスキリングでもアップスキリングでもなく、従来の知性のあり方を積極的にみなおす(ディスキリングの)ときがきている。

心臓の知性(IoH, HI)

モラルを持ち、意識的に、かつ単なる幸福感によるのではなく、実践的に、人生を意味あるものとして生きるための知性が求められるのではないか。古代ギリシャの哲学者アリストテレスはこういった人間の知的卓越性を「賢慮」(フロネーシス:実践的智慧)といった。賢慮は魂(プシュケー)の理性的部分の働きであるとされる。

魂のありか

プシュケーはもともとギリシャ神話の愛の神エロス(キューピッド)の妻の名前で、古代ギリシャでは息(呼吸)を意味した。それがさらに、栄養摂取(呼吸、睡眠、栄養、生殖の能力、老化)、知覚(感覚能力、欲求能力、場所的移動の能力)、理性(知性、表象能力、理性能力、記憶)など人間という生命体の現実のすべてに関与するものとされていった。古代の人々にとって死は、生きていた身体から不可思議な“何もの”かが外に出ることによって引き起こされる出来事であり、そのような“あるもの”を、古代ギリシャ人は魂(プシュケー)と呼んだのだ。つまり、プシュケーは、生きているもの(生物)とそうでないもの(無生物)を区別する原理としての意味合いが大きかった。それゆえプシュケーは、人間の身体のうえにしか現れない、身体なしにはありえないものであった。

そしてアリストテレスはこのプシュケーの中心が心臓にある(宿る)と考えていた。プシュケーのありかは、つまり望洋とした「心」ではなく、人体の中心部分にあっていまここで鼓動している心臓であると考えられたのである。身体の中で、唯一拍動する臓器である心臓は、洋の東西を問わず、感情や思考や意志の座として特別な意味を与えられてきたという歴史がある。古代エジプトでは、ミイラづくりにおいて他の臓器は脳も含め取り出されても、心臓だけは残され肉体(ミイラ)とともに冥界入りした
こうした心臓に対するある種特別な思いは、その後もいろいろなかたちで受け継がれきたが、解剖学の知見から心臓のメカニズムが明らかになるにつれて心臓も人体の器官のひとつとみなされるようになり、特別視する見方は近代以降はマイナーとなっていった。とくに脳科学が発達し、脳死が人の死とされるなど脳という臓器が特権的な地位を獲得した20世紀末には、心臓の存在感は影をひそめたかに見えた。

ハートブレイン

しかし、近年、脳と心臓の関係についての研究が進んでいるようなのだ。医学的な見地から、オランダのエラスムス医療センターでは「ハート ブレイン コネクション(HBC)」という研究プロジェクトが行われている。心臓発作と脳卒中の関係、認知症なども、心臓と脳の関係から見えてくるものがあるだろうと予見されている。心臓は脳と密接につながっているのである。

心臓には約4万個のニューロンがあり、心臓は脳と同じような神経構造であるHeart Brain(心臓脳)を備えているといったことも分かってきており、知覚、記憶、学習、決定などの、脳と同じような働きを独自に行っているというのだ。また、心臓脳と(頭)脳は頻繁にコミュニケートしていて、脳から心臓へ送られる情報量より、心臓から脳へ送られる情報量のほうが圧倒的に多いというのである(“Intuitive Intelligence, Self-regulation, and Lifting Consciousness”)。その他いくつかの研究でも、心臓は脳よりはやく情報を受け取るという。

こうしたアカデミックな研究成果は、生きている私たちが直覚的に感じている感覚とも近い。心臓は、時計が刻む客観的時間ではなく、自分だけの主観的時間を刻むパルスであり、その個々の瞬間が自分の感情や身体と結びついているという実感は、たしかにある。つまりこれが心臓の知性(Intelligence of Heart:IoH、Heart Intelligence:HI)なのだろう。つまり、賢慮は心臓に宿っている

臓器の知性

実は「臓器の知性」は、これからのホットトピックである。これまで脳に関心が集中してきたが、最近は腸の知性(腸脳相関)が注目されつつあり、タコの知性(3つの心臓と9つの脳を持つ)への関心などが挙げられる。皮膚が「露出した脳」であるともいわれる。
3つの心臓と9つの脳を持つタコには、5億個ものニューロンがあり、そのうち3億5000個は脳ではなく8本の腕に沿って存在している。そして、脳を経由することなく腕同士で情報交換しているらしい。8本もある長い腕が絡まることもなくそれぞれに機敏な動きをするのもそのためだろうと納得できる。それにしても、ニューロンをはたらかせ維持するのは当然大量のエネルギーがかかるわけで、こんなコスト高の機械がなぜタコに5億個(犬とほぼ同じ)も備わっているかは謎である。『タコの心身問題』(ピーター・ゴドフリー=スミス みすず書房)では、ニューロンには2つの役割があるのではないかと説かれていて、1つは知覚と行動を結びつけること、もう1つは「行動を生み出す」ことだと言い、重要なのはこの行動を起こす作用のほうではないかと自説を展開している。
生物は多細胞になるほどに、行動を起こすには身体の多数の部分の協調が必要となる。調子を合わせるためには、たとえばボートにたくさんの漕ぎ手が乗っているとすると、それぞれが勝手にオールを動かしてもだめで、前に進めるには全員が一斉に同じタイミングで漕ぎだすことが求められ、そのための方法として考えられるのは誰かが「漕げ!」と声をかけることだ。そして全員の動きが揃うようそのリズムを指示する、その働きがニューロンの重要な役割なのではないかというのである。人間には脳も心臓も1つずつしかない。しかし、前述の研究成果(“Intuitive Intelligence, Self-regulation, and Lifting Consciousness”)が示すように、心臓が脳よりも先に直観的な情報を受け取り、心拍優位電位によって脳に求心性信号を送信しているのだとすれば、「漕げ!」と指示を出して行動を生み出し、首尾一貫した動きや状態を作り出しているのは心臓のニューロンのほうなのかもしれない。

なんのための知性?

では、この心臓の知性の役割は何か? それは外的環境を直観的に把握し、脳と身体を統合することであるといえる。

直観的知性は心臓の打ち出すリズムにも関係があるだろう。劇作家・評論家の故・山崎正和は『リズムの哲学ノート』で、カント以来の西欧哲学の伝統における身体知の欠如を指摘した。科学的知識は、普遍的で没個性的であることが理想とされてきた。それは悟性や理性の領分だった。しかし、マイケル・ポランニーが指摘したように身体や情念を含む個人の暗黙知こそ、科学的な発見を前進させてきたと喝破した。この身体性と悟性をリズミックに、直観的に統合するのが心臓の知性だといえる。

そして、この直観的知性(intuitive intelligence)はアブダクション(直観的推論:abduction)に紐づいていると筆者は思う。アブダクションは、大脳新皮質のロジックでもなく、感情的な直感的想起だけでもない。またその場における身体的感覚が不可欠だ。これらを直観的に(直接本質を観じとる:直感ー感覚的ひらめきではない)統合するのが心臓の知性ではないか。

心臓の知性と脳の構造の対応(イメージ)

ジャーナリングは心臓の知性への入り口

しかし、こういった最近の関心にもかかわらず、現実にはわれわれは心臓の知性についてまだよくわかっていないのだ。それは深く自分自身に根付くものであるがゆえに、かえってうまく使えていない。

そこでジャーナリングが有効なテクニック、行為として注目される。米国のジャーナリング普及団体がこういった内容をとりあげている。

「ジャーナリングの力で心臓の知性にアクセスしよう」

つまり、

①ジャーナリングは時折現れる心臓からの発見などを記憶(記録)しておくのに重要であり、

②ジャーナリングを再考することによってこれらの断片が統合され、

③こういった活動を通じて心臓(の知性)と語ることができる、、、、といった効用があると語っている。

こういったアリアドネの糸が必要だ。

ジャーナリングは自分の内面への入り口だ

ジャーナリングは断片的な大脳知性からの気づき、情緒脳からの気分や感情の断片、身体の状況など、日々分断した知性を統合するために有効だといえる。こういった効用をドラッカーや、かつてのイエズス会のイグナチオ・デ・ロヨラらが『霊操』などで活用したのはいうまでもないだろう。イグナチオ・デ・ロヨラは人がある行動を選択するように導くさまざまな動機を「霊」と呼んだ。霊操の目的は、善霊(愛、喜び、平和)と混乱と疑念をもたらす悪霊を見分ける識別力(discretio)を開発することである。それはいわばプシュケーの修練なのだ。

こういったアプローチがどれだけ科学的な正当性を持つのかは現在も問われているが、心臓の持つリズムがわれわれに行動を起こさせ、われわれの経験を一貫性のある状態にシフトさせることができるとするなら、ジャーナリングによってその心臓の直観的な能力とより深い智慧にアクセスできる新しい内なる基盤を確立できる可能性は高いと思われる。

これまでもチクセントミハイのフロー体験などにみられる「引き込み現象」(リズムを介した共感現象)には、心臓のリズムがかかわることは言われてきた。心臓知性の重要性は納得できるものがある。というより、その重要性は外部からの測定やチェックリストによって提示されるものでなく、自分自身の内面のリズムに向き合うことによってしかわからないだろう。

その手立てがジャーナリングであると思う。

身体的で主観的な自分の時間から発する断片をとらえ記録し後に振り返る

人間に残された能力としての構想力

社会がデジタル化し、AIの登場、SNSのようなメディアの台頭によって、われわれの日々の生活時間はきわめてランダムに断片化され、自己の存在が失われるという症候群がみえはじめている。

ロボットアーティストのAi-Daがいうように、結局最後に残されるのは主観的経験と意識を持って未来に向かっていく知性なのだ。そうした知性を一言でいえば「構想力」ということになるだろう。構想力は①想像する力、②主観の力(ただしエゴでなく共通感覚に基づく)、③実践に至る体系化する力によって構成される。これが人間の能力としての最後の切り札だとするならば、イノベーションなどにおいて不可欠なのはいうまでもない。筆者は『構想力の方法論』(野中郁次郎氏との共著)という本を2018年に出版したが、そのなかで構想力を磨き、構想を生み出すにはジャーナリングが有効であることを示した。ジャーナリングは単に日々の記録ではなく、フラッシュのように湧き出てくるアイデアや感覚の断片を記し、統合する知のテクニックである。そのジャーナリングが心臓の知性にアクセスし、その知性を目覚めさせることにも有効であることを知り、構想力と心臓の知性の結びつきにも興味がわいた。

構想力とジャーナリングというテーマについては、筆者の断片を青の時の田中順子さんがまとめてくれ、『構想力ジャーナリング入門 日々3行で自分と世界がつながる知の方法論』として出版したばかりである。
この出版自体は多分に実験的なもので、筆者が『構想力の方法論』の未掲載稿を読み砕いたnoteのシリーズから一冊の本になった(noteさんに感謝)。最初Kindle版が出て、次にオンデマンド版が用意された。次に「豪華(?)」装丁版が限定数で発刊されるという。何種かのバージョンが揃うと面白い。
同書には、筆者自身の経験からのジャーナリングの手法を記したが、日々・週・節とジャーナリング・ジャーニーを進めていくそのリズムと息遣いのなかに、行動を生み出す心臓の鼓動の知性が宿っているのではないかと、また新たな発見があったことをここにジャーナリングとして残しておこうと思う。

「構想力ジャーナリング入門: 日々3行で自分と世界がつながる知の方法論」
紺野登 出版社 ‏ : ‎ 青の時


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