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紫陽花

 藤色がかった雲が、夏の始まりの暑さで少しずつ溶け出していた。それは、肌にじっとり纏わり付くような雫となり、僕の腕を終始湿らす。傘はこの、空気の粒全てが水でコーティングされたような天気の中では、あまり意味を成さなかった。

 こんな日にも僕は散歩をしていた。毎日ひねもす、同じルートを歩く。夕方の四時きっかり。風が強く吹いたら今にも崩れそうな僕のアパートを出て、角の定食屋を北へ、しばらく進むと細い砂利道に入る。道は細い竹藪に囲まれている。少し坂になった、薄暗いその道をひたすら登っていくと突き当たりに、雑多な植木で覆われた古い日本家屋が、そこに息づいている。建っている、と言わないのは、それがまるで生き物のように、もう目 も開かないが確かに呼吸だけはかすかにしている老人のように、そこに横たわっているからだ。

 鬱蒼とした木々に守られて、彼女は立っていた。ある晴れた日、濃い緑色の隙間から射す木漏れ日と共に、僕はその庭に佇む彼女を見つけた。青白い、透き通った肌、淡いピンクと紫のグラデーションの着物に身を包み、咲き誇る花たちにそっと水をやるその姿に、僕は我を忘れて見入ってしまった。まるで、あの花々から生まれた妖精か何かではないかと思ってしまうほど、彼女の姿は浮世離れしていた。それから僕は、毎日この道を散歩することになったのだ。彼女を一目、見る為に。

 彼女の庭園はいつも色鮮やかな花で埋め尽くされていた。中でも紫陽花は異種異様なほどの美しさで、それらは彼女の白いうなじに薄紫に映った。しっとりと濡れた紫陽花は、彼女の静脈と色を同じくして、雫を滴らす。僕の呼吸で、蒸れた空気はより一層生暖かい水に近づいた。僕の白いシャツが濡れ、鳩尾をするりと這う汗に、僕は体を震わせた。

「誰」

 植え込みはしっかりと彼女を警備していた。僕の腕が数枚の葉を揺らした音を、彼女は聞き逃さなかった。眉を少し寄せ、身を固くして音の鳴るほうをじっと見つめる彼女。僕は一瞬息を潜めたが、もう全てを理解したような彼女の凛とした眼差しを見て、ふうっと大きく息を吐き、木々の隙間から彼女をしっかりと見つめ返した。

「すみません、紫陽花を、見に来たのです」

 すると彼女は少し警戒を解いたようだった。身動きはしないものの、強張っていた肩が和らぎ、「そうですか」と安堵の声を漏らした。そのままの距離を保ったまま、僕たちは言葉を交わした。

「季節ですからね」「ええ、お好きですの」「好きです。特にその濃い色の」「今年は特に立派に色づいたんです」「奥の薄紫の小ぶりなのも」「額紫陽花もとってもいいんですのよ」「素晴らしい」「よろしければ」「え」「ご覧になって」

 招かれるがまま、僕は門番の木々を掻き分け、毎日眺めた庭へついに足を踏み入れた。腰の高さまである紫陽花たちが、僕が歩を進めるのを阻んでいるような気がした。もう、手を伸ばせば彼女がそこにいる。止まる理由はどこにもない。
 彼女の隣に立つと、えもいわれぬ甘い香りがした。無花果のような、みずみずしく、鼻腔に絡みつく香り。それに混じって、雨と砂と、青い匂い。頭が、ぼんやりする。

「どうかなさいましたか」

 僕の顔を彼女の、少女のように丸い瞳が覗き込む。間近で見る彼女の肌は、透明に近く、薄化粧はしているものの、これがなければ肉眼で確認できないのではないかと思うほど空気のようだった。そして唇は、不釣合いにぽってりと厚く、濡れている。鼓動が、高まる。呼吸がままならない。汗が再び、鳩尾をゆっくりと通り過ぎた。太陽が出たのだろうか。眩しい。

 目を開けると僕は彼女を抱き寄せていた。小さな彼女は、強く絡められた僕の腕の中で苦しそうにもがいて、細い腕で必死に僕を引き剥がそうとしている。息を吸わせてやらなければ。僕は彼女の両手首を掴み、彼女の唇に自分の口を押し付けた。彼女は声にならない呻き声を口の中で叫んだが、僕はそれを自分の舌で舐めとってしまった。彼女の唾液は青い、草の味がした。そのうち脚に力を失った彼女は濡れた地面に崩れ落ちた。
 そのまま彼女に覆い被さる形になった僕は、彼女の唇から耳元、首筋へと舌を這わせながら、着物の襟元から左手を滑り込ませた。真っ白な肌は、僕が触れると、赤みを帯びた薄紫に変化していく。陶器のように冷たかった体も、徐々に熱を帯びて湯気を昇らせる。少し緩んだ襟元の中の左手が綿のような彼女の部分をとらえ、指で弄ぶと、彼女の口からねじれた吐息が漏れた。僕は自分の膝で、しっかりと閉じられていた彼女の着物の裾から割って入り、次は右手をその間に探り込ませた。太腿から奥へ進むと、もうそこは熱く湧いていて、僕は我を忘れて、自分の体の思うままに動き始めた。苦しそうだった彼女の表情はふっと緩んで美しく、僕の目を見て、少し微笑んだように見えた。

 雨足は強まり、誰の声をもかき消した。

 
 借りていた本を返しにきた男は、その古びたアパートの前で困っていた。もうここ一週間毎日ここを訪れているというのに、家主である友人は、一度たりとも姿を見せないのだ。
「まいったな」
 植物図鑑を片手に反対の手で頭をぽりぽりと掻きながら、その日もアパートを後にしようとすると、「永井さんのお知り合いかね」と、誰かが彼に声をかけた。振り返ると、腰の曲がった小さな老婆が箒を杖にかろうじて立っていた。

「大家さんですか?」「永井さんなら、一週間前にいつものように散歩に出かけたきり、帰っていないよ」「どこへ行ったかわかりますか」「いつも北の藪へ、入っていましたよ」

 大家に礼を言うと、彼は早速北へ向かった。妙な胸騒ぎを隠し切れなかった。アイツ、大学を突然辞めて、作家になるだなんて言っていたけれど、うまくいかずに、早まったりなんてしていないだろうな。逸る気持ちで小走りになる。大学では二人植物の研究をしている仲間だった。いや、アイツは自ら命を絶つような、心の弱い男ではない。気になることはどこまでも、諦めず探求する強い男だ。

 竹藪の砂利道を抜けると、古い屋敷に突き当たった。ひとつの意思を持ったようなその異様な空気を漂わせるその屋敷に、彼は吸い込まれるように近づいていった。「もしやアイツはここにいるのか」家を囲む植木の隙間から、そっと中を覗き込むと、そこは、一面の紫陽花庭園だった。それも、見たことのないくらい、真っ赤な。

 彼は植物の研究をしていたが、ここまで見事に赤い紫陽花は初めてだった。紫陽花は土壌の性質が花色を決めるひとつの要因であることは知っていた。俗に酸性で青、アルカリ性で赤に近づくという。しかし、不自然なほどに、美しい赤だ。
 いつのまにか目的を忘れ、紫陽花に見入っていた。するとその花たちの中心に、人が立っているのに気づいた。鮮やかな色彩の中、一人ほぼ白に近い薄紫の輝きを放つその女性は、この世にたった一人、何百年もたった一人で生きてきたような孤高な空気を纏っていた。

「誰」

 彼の足は、彼の意思とは別に彼女へ向かっていた。その、梅雨に濡れた紫陽花のような女に、薄氷を踏むような思いで近づいていく。紫陽花の根元に、見覚えのある白いシャツが、泥まみれになって落ちているのを見つけたが、そんなことはどうでもいいくらい、彼は女の美しさに心を奪われていた。

 彼は既に紫陽花の中にいた。女に触れた時全てを理解したが、もう雨は止む気配を見せない。

 そして紫陽花は今日も、赤く、美しく咲くのだ。

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