きみへ

　いちばん最後の帰り道、きみとすれ違ったね。

　きみといた時間は不思議だった。きみのことをたくさん傷つけたと同時に、わたし自身もたくさん傷つけられた。だからなのかわからないけれど、仲直りもしたはずなのにどうしても後ろめたくって、きみの声がした瞬間にそっと、ワイヤレスイヤホンを耳に差し込んで、とりあえず、大きめの音で音楽を聴いた。ぱっと目に付いたのはNoRNiRのアルバム。きみは絶対に聴かないだろうし、きみといたときのわたしだって絶対に聴かなかった。きみはこういうふわふわとしたバンドのこと、ばかにしそうだもの。いつもより少しだけ帰り道を急いだ。貧血ぎみだったのかわからないけれど、すぐに動悸がした。どきどきどきどき言っている心臓がうるさくて、怖かった。
　わたしの知っていたころよりもほんの少しだけ服装が派手になっていて、すこしだけ明るくなった髪の毛は、正直あまり似合っていなかったよ。わたしが知っているときから変わっていなかったのは、声だけ。他の誰よりも低くて、けれどそれほど強くはない、決して甘くはないけれど優しい声。目を合わせてはいないから、もしかすると、きみはわたしに気がついていないかもしれない。そうであってほしいな、と思う。

　きみは今、なにをしているのですか。わたしはもう、きみのそんなひとかけらすらも知らないんだよ。知ることを許されない人間になったし、知りたいと思わなくもなった。人間ってふしぎ。ひとりの人間をめぐってあれだけの大きな感情を動かしていたと思えば、次の瞬間にはその感情をどこかへやってしまったりする。きみと一緒にいたときに感じた胸の痛みだとか、塩味の薄い涙の味だとか、きみが大好きだったバンドのライブにふたりで初めて行ったときの気持ちだとか、もう忘れちゃったよ。それぞれの思い出に甘いセピア色のなつかしさはあるけれど。
　わたしの過去はあまりにあったかくてふわふわだから、過去を抱きしめていたいと思うときはたくさんあるけれど、けれどもうそこにきみを思う、ちくちくした気持ちは出てこないの。それはわたしにとって悲しいことでもあるし、嬉しいことでもある。悲しいのは、わたしにとっての大きな時間をずっときみが占めていたから。嬉しいのは、そんな長い長い時間に執着せずにもうわたしは歩けるということに気がついたから。
　正直なところ、きみの声ももうあまり思い出せないし、きみのあの当時の姿かたちももうあまり思い出せない。電車に乗ろうとしたらきみがいるのが見えて、避けてしまったときや、知らんぷりをして隣を通り過ぎたときに目に焼き付けたきみの姿しかもう、わたしの記憶にはないの。

　きみが今の私に向かってなんて言うのかはわからないけれど、たぶん、「お前まだそんなことやってんの」なんて言って、笑ってくれるんじゃないかな。ばかにしているように見せながら、そうじゃないっていうのはちゃんとわかっているから安心してね。わたしの文章のこと、いちばん最初に褒めてくれたのはきみだって、ファン1号になるよって言ってくれたのもきみだって、ちゃんと覚えてる。そういうことは言わないと思っていたから、本当にびっくりした。

「お前はさ、俺じゃなくて、あいつのこと好きになれよ」
　だなんて、ドラマみたいなセリフを言ったのもきみだったっけ。
　わたしはあれからわたしなりにいろんなことを学んだ。今わたしがそのセリフを聞いても、まったくときめかない自信がある。その当時もあまりときめきはしなかったけれど。だって、今のわたしは絶対に「お前」だなんて言われたくないし、わたしの「好き」に指図をしてくる人間なんてこちらからお断りだもの。けれど、きみもあれからきみなりにいろんなことを学んでいるのでしょう。今のきみなら、その言葉をどうやって伝えるんだろう。ちょっとだけ、興味がある。これは、ただ純粋な気持ちで。

　今、わたしは元気にやっています。

　今のわたしの周りにはもう、わたしにはたくさんすぎてありあまってしまうほどのきらきらがあって、わたしはそれをひとつひとつ、大切にしていきたいと思っているし。
　けれどもし、きみの作ってくれたわたしが、今のこのきらきらを掴みとったのだとしたら、わたしはきみに、一生返せないくらいの借りを作ってしまったのかもしれないね。もう返す機会もないのだろうけれど。

　わたしはいま、成長した想像のきみに話しかけているように見えて、わたしの過去に向かって話しかけているのでしょう。わたしがずっと抱きしめていて、やっと手放すことのできた過去に。

　ありがとう。それくらいしか言えません。けれど、これがせいいっぱいです。

　きみもどうか、幸せに生きていてね。

　またね。