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妄想旅 <8> 悪意

第一次世界大戦(1914年~1918年)の影響で、女性の社会進出が進み、労働生産が上がったが物価の上昇によるインフレで、大正7年(1918年)には米騒動が起きた。

騒動の背景には都市への人口集中があった。

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グラフは人口地理学者の岸本実氏が、1965年に日本歴史地理学研究大会で発表した論文に加筆増補を加えた、『明治大正期における離村地域の形成と都市人口の集積過程(第一報)』から引用させて頂いた。

北海道含む東京・大阪の人口が、明治28年(1895年)から明治33年(1900年)にわたり急上昇した後、さらに上昇を続け、大正4年(1915年)から大正9年(1920年)まで、再び急上昇している。

この都市への人口集中によって第三次産業の拡大と共に労働力需要が高まり、女性の社会進出がさらに進んだとみられる。

また教育を受ける、あるいは受けたいと思う女性が増えた事で、女性の進学率が上がり、肉体労働から頭脳労働の領域までその職種も広がっていった。

この女性の社会進出について、私自身、誤ったイメージで認識していた。

これまで、女性は社会に進出する事によって働くようになったんだと時代錯誤な勘違いをしていたが、女性達はそれまでも、いやそれどころか江戸時代から結婚していても働いており、そしてそれが普通だった。

家事、ではなく、家事以外に、である。江戸から明治・大正に至るまで家事以外で女性が(母親が)働く事は普通の事だったのである。

とある大学教授によれば、”共稼ぎ”という言葉でイメージされる女性労働というのは昔は珍しい事ではなく、働かずに食べていける一部の上流階級の女性は”奥様”として何もせずにいられたが、それ以外の大多数の女性達は、家にいながら、また母親として在りつつ普通に働いていたそうである。

現在のマスメディアで「女性の参画」を取り上げる時、”昔の女性は家事と育児しかしなかった”といった誤解が一部あげられる事があるが、それは間違いであるという。

明治から大正時代、学校卒業後、家事手伝い・行儀見習いとして家にいれば家業を手伝うという形で家業の担い手として働くか、女工として工場に働きに出ていたが、第三次産業の拡大により職種が増え、働く形が家事手伝いや女工以外に多様化した事で、社会への進出が広がっていった、というのが本来の流れという事だ。

そうして”職業婦人”という新たな言葉が生まれた。

さらに教育水準が上がっていく事で職種の幅も女医、教員、タイピスト、通訳などと広がっていった頃、新たな階級が生まれる。

中産階級である。

他の言い方では中流、新中間層、ホワイトカラー、サラリーマン階級など。

Wikiでは新中間層という言葉で、”現業に従事せず、事務・サービス・販売関係業務に従事する者を指す”とあり、成立したのはこの時代、つまり大正時代だったという。(現業・・国および地方公共団体の非権力的な業務のこと)

日本における新中間層は、大正時代に成立した。1930年代には、かなりの厚みを増していたが、第二次世界大戦で壊滅し、新中間層の確立は高度経済成長期の1960年代を待たなければならなかった。     Wikipediaより

第三次産業の拡大と教育の広がりがもたらした新たな階層としての中産階級が、もう一つの大きな社会風俗の発展として、消費文化の発達をもたらす。

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画像は、明治44年(1911年/ちなみに明治は45年まで。1912年は明治45年であり大正元年でもある)3月1日に開場(3月4日杮落し公演初日)した帝国劇場で、大正2年(1913年)に配られたパンフレットである。

右上にある「今日は帝劇、明日は三越」のキャッチコピーは当時大流行したそうだ。当時の庶民の憧れの生活がこのコピーには集約されているという。

三井家の「三井」と創業時の「越後屋」からとった屋号が、明治37年(1904年)に「合名会社三井呉服店」から「株式会社三越呉服店」へ改称した時から愛称ともなっている日本初の百貨店、”三越”

(日本橋三越本店は日本の百貨店の始まりとされている。1935年に竣工した本館は、国の重要文化財に指定されているそうだ)

江戸時代の1673年(延宝元年)に江戸本町一丁目14(後の駿河町、現・東京都中央区日本橋室町の一部)において、「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」「小裂何程にても売ります(切り売り)」など、当時では画期的な商法を次々と打ち出して名をはせた、呉服店の「越後屋」(ゑちごや)として創業。          現在では当たり前になっている正札販売を世界で初めて実現し、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにした。 Wikipediaより

女性の社会進出が広がっていく中、注目された職業の中に”女店員”さんがあったという。その中でも三越呉服店が女性の店員さんを採用した事は、当時のメディアからも注目されたそうだ。

経営史を研究されている近藤智子氏によると、三越呉服店が女性店員を初めて採用したのは、明治35年(1902年)、その時2名だった採用人数は3年後には26名に増えていたという。

明治38年(1905年)、三越はデパートメント宣言を行った。        ※2022年6月24日 訂正 正しくは明治37年(1904年)である。

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江戸時代から切り売りをしていた三越だが、三越百貨店創業者の日比翁助氏は、呉服店内の畳に座った売り子が来店客を畳に上げ、要望の商品をひとつひとつ見せていくという座売り販売方式では、発達した消費文化の時代に対応できない、と考えたのか、陳列販売方式に切り替えたのである。

お得意さんがほとんどだった客層が、都市人口の増加に伴い、一見さんの数が増えたという事もあったかも知れない。

呉服を売る、という事は、呉服物の品質、模様、色合の意匠から流行、加えて織染、刺繍、裁縫についてなど、基本となるものだけでも相当な知識と眼力が必要となる。

上流階級だけを相手にしていれば良かった時代には、そうした知識と眼力で武装した少数の売り子で対応できたであろうし、またその売り子を店が育てるという気風もあったのだろう。

人口が増え一見さんが増えてくると、”品物の質”から”買う人の気分に合った物”へと売るものが変わっていったのか、品物の質を理解できるまで売り子を育てるよりは、客の気分を読み取れる人を雇った方が効率がいい、と店側が考えるようになった、と感じられる。

稍意外とする所で,且つ各国に共通して居ることは販売員は殆と全部婦人であることである     日比翁助氏 欧米の百貨店の視察記 より

もちろん、商品知識は必須であったわけで、それ故当時、女性店員さんは肉体労働ではなく頭脳労働であり、知的職業としてカテゴライズされていたが(当時だけでなく現在だってそうだと思うが、現在では肉体労働的な辛さのイメージが当時よりは色濃い気がする)、相手の気分を読み取る事や人当たりの方に重点が置かれるようになっていったのではないだろうか。

それにしたって初めからうまくいったわけではないとは思うが、総じて”男性に比べてより丁寧で親切である”というその特性により、女性店員は三越にとって貴重な戦力と考えられるようになっていったそうだ。

そこへ行くと婦人は正直で,相手を満足させるまで良品を選択する。一時間二時間といふ長尻客に相手をしてゐても,最初に愛嬌をふりまかないだけ,割合ひに長続きがするものと思はれる。               (中略)其処へゆくと若い男子の店員は急性急性とした態度で,まるで機械でお客を追ひ巻くるやうな調子で,お客の数さへはけば夫れで好いといふ風な容子である 『実業界』第13巻第1号(大正5年/1916年)国分まさを氏 

「女性の店員さんに勧められた方が買い物もしやすい」といった顧客評が新聞の記事になったりもしていた。

新聞の女性店員募集広告などは、時代の最先端をゆく女性モデルを配したおしゃれな広告が多かったそうで、その訴求力もあってか、百貨店(デパート)の女性店員は人気職種の一つだったようだ。

そして村上信彦氏の『大正期の職業婦人』によれば、当時の三越の経営者達は、”これほど優秀な女性店員は、職員として長くいて欲しい”と思っていたらしい。

ところが女性店員は、短い在籍期間で辞めていく人が多かった。

「どうしても女は年頃に成ると結婚をする為めに店を退いて了ふのが多いのです」 未婚者について/三越庶務課等在籍した笠原健一氏1910年の談話 

そして前述、村上信彦氏の『大正期の職業婦人』には、既婚者の女性についてこんな一文があった。

大きな決定的な障害は、妻の外働きに夫や姑が反対したことである。一般労
働者階級では共稼ぎは昔から普及していたから、珍しい現象ではなかったが、いわゆる中産階級では、妻を働かせることは扶養者の権威を傷つける恥ずかしいことで、家の体面に関わる外聞の悪いことだった。
家長はあくまで一家を養うことによって、一家を支配するのである。妻が外で働いて収入を得ることは、その原則に反することであり、また妻の自主性を多少でも認めることになるから、許すことはできない。それで生計が立たないなら、むしろ家で内職するほうがましだった。

・・・突っ込みまくりたいところだがスルーして、教育について書かせて頂きたい。(ここまでで結構長文になっているのはわかっているのだが・・)

教育を受ける、あるいは受けたいと思う女性が増えた事で、女性の進学率が上がった事を先に書いた。

当時の教育について、内閣府・男女共同参画局ホームページ”高等女学校における良妻賢母教育”というコラムによると、当時の高等女学校への進学率の上昇は、女子の就職のためのスキルの育成に対する需要の高まりを反映したものとは言いがたかった、とある。

当時の高等女学校のカリキュラムは「国語」「数学」「歴史」「外国語」などの一般科目と「家事」「裁縫」等の科目が設定され、正級長任命の基準は成績の他に、親切・謙譲・円満など周囲に対する配慮が重視されていた事例が見られるという。

さらに卒業生の卒業直後の進路を見ると、多くが「家庭」となっており,就職した者の割合は極めて低いそうだ。

そして文部大臣の樺山資紀の、明治32(1899年)地方視学官会議における発言を載せている。

「高等女学校ノ教育ハ其生徒ヲシテ他日中人以上ノ家二嫁シ,賢母良妻タラシムルノ素養ヲ為ス二在リ」と述べており,高等女学校には,良妻賢母の育成が期待されていたことがわかる。

教科外活動について、郡部の高等女学校では農作業や花壇作りなどの共同作業が重視され、都市部の高等女学校では近代的・科学的な育児方法の講演や幼児教育施設の見学などが重視されていたそうだ。

こうした女子教育なるものがすすめられていった結果、どうなったか?

複数のWebや人文系の大学教授・講師の方の論文などで触れられていたのは、発展してゆく女子教育を受けた者であればあるほど、それを受けていない女性が携わる職業には就きたくない、という差別意識が生じるようになったとある。

”私が受けた教育は、妻や母として家族に尽くす為のもの”という考え方が、教育を受ければ受けるほど強まっていき、職業婦人としてのキャリア形成という概念は失われていったそうである。

そしてその教育は、多くの中産階級の女性達が受けたものだった。

女性の社会進出が広がっていくのと軌を一にして、新たな階層として登場した中産階級と発展していく女子教育。

その2つがまるで示し合わせたかのように、女性の社会進出を阻む方向に向かったその黒幕は一体誰だ?と言いたくなるが、恐らくそんなものはいないのだろう。

だが、これにはどうも皮肉を通り越して悪意を感じる。

”昔の女性は家事と育児しかしなかった”といった誤解が一部ある、という事を前述したが、この時代の中産階級の一部の女性における風潮としては間違いではない、という事にもなる。

もっともいくら阻もうが女性の社会進出はその後も止まらず、拡大し続けていくのだが。

その前に一度立ち止まらなければならない事態が起こる。

中産階級のアテクシたちが帝劇や三越を闊歩するのが日常風景となった頃、インフレによる不況と関東大震災(大正12年(1923年))があった。

続きは次回に。お時間ある方、またお付き合い願えればと。

長い記事を最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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