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不安がわたしを死なせる前に

両親からの誘いを断った。

土曜の夜に、Skypeで情報の共有をしようという旨のメールだ。昨今の新型コロナウイルス情勢に関する周囲の様子や危機感の程度、予防・対処の方法、今後の方針などなど。

とにかくいろいろ話し合おうということだった。

私はなんか嫌だった。気持ち悪かった。違和感があった。


「なにも直接会おうってんじゃないんだから」
「離れていても会話があるなんてすばらしいのに」
「心配してくれていい親御さんじゃないか」

どこからか、そんな批判が聞こえてくる。

その通り。彼らはまさに模範的な「いい親」だ。

かなり遅めの反抗期に突入しているという説もある。
実際、私は思春期の年代に反抗期らしい反抗期を迎えていない。おとなしく育ったようにも見えるし、歪んだ成長を遂げてしまったともとれる。

でも、今回の奇妙なざわつきには一定の説明がついた。

結論から言えば、彼らの掲げる目的は絶対に達成し得ない。

なので断った。


便利な世の中になったもので、東京と静岡という離れた土地に住んでいても、私と親との情報リソースにはそこまで差が無い。せいぜい、ネットとアナログの配分が数パーセント違うくらいのものだろう。

防疫の方法論は専門家の意見に従うのが最も手堅いはずだし、まして具体的な行動原則については厚労省発信で繰り返し報道されている。

外出時はマスクをして、『三密』を避け、手洗いうがいと消毒を徹底する。症状が出た場合は帰国者・接触者相談センターが指定する機関に連絡する。

指針を定めた資料もきちんと出ている。

『新型コロナウイルス感染症についての相談・受診の目安について』
厚生労働省健康局結核感染症課
https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000596978.pdf

家族で話し合ったところで、今以上の”確固たる何か”が得られる見込みはない。

断言しよう、ないのだ。

問題は、私の両親とてそんなことは百も承知のはず、ということだ。

素人が寄り集まったところで、今回の災禍には化学的かつ国家戦略的に対処する必要があるこの状況は動かない。

ではなぜ彼らは情報共有を図るのか。


浮き彫りなってきたのは底知れぬ不安だった。

こんな時だ。誰だって不安でしょうがない。それはべつにいい。私だって毎日不安だ。なにも異常じゃない。

しかし、私に届いた文面からはもっと別のものが感じ取れた。

この不安を誰かと共有したい。もっと言えば、誰かに安心させてほしいという潜在的な欲求。そんな原始的な感情が見え隠れしている。

どこかで感じた違和感だ。

SNSで情報共有、拡散希望というハッシュタグで不安をまき散らす。関連投稿を漁ってはリツイートを繰り返すことで心を紛らわせる。政府や隣国に責任を押し付けて批判と文句と嘆きとを垂れ流す。

そんな人たち。

「誰か」に助けてほしい人たち。

私は、自分の両親に彼らと同じプリミティブな不安の爆発を見たのだ。


今朝の日経の一面に、ちょうどインフォデミック(情報パンデミック)についての記事が載っていた。

トイレットペーパーをめぐる一連の騒動は、犯人とされるデマツイートそのものよりも、それを打ち消そうとした数多くの「良心からのツイート」が拡散させてしまったというのだ。

私を含め、一体どれほどの人が「デマを打ち消している自分は冷静」だと錯覚していただろうか。

どんなに正しいことを言っても、トイレットペーパーが品薄である(になるかも)という不安からは逃げられない。

むしろ私たちは合理的に判断するからこそ不安に苛まれる。

情報の共有は感情の共有でもある。感情を共有することで、不安を他人になすりつけ伝播させてしまっている。

他者から乗り移った不安が、「デマの火消し」という大義名分を得て爆発し、次なる不安を増幅されていく。

私たちは自らの手でパニックに陥っていたのだ。


これを家族に置き替えたところで、帰結するところは明白だ。

相手が目に見えないウイルスである以上、特効薬が完成するまでは一定の安心は得られない。

リスクに晒される人間の心は、不安を溜め込み続けていずれ爆発する。

不安に立ち向かうことから逃げ、どこにもない安心を求めて息子にしがみつく姿はまるで赤ん坊だ。

私には両親が惨めに思えた。

私では、彼らを助けてあげることはできないのに。


感染リスクを抑える政策を打ち出すのは政府や自治体だが、それを受けて行動するのは個人だ。まぎれもない自分だ。「あなた」だ。

自分の心を蝕む不安から救ってくれるのは「誰か」ではない。国や親でもなければ子でもない。立ち向かえるのは自分だけだ。

それを弁えずに、行動を誰かに委ねればどうなるか。先日話題になった前田みかこ氏の末路を見れば明らかだろう。

パンデミックを生き抜くのに求められるのは経済力でも知識でもない。

ひとり不安に立ち向かう心の強さだ。


チープな精神論に聞こえるだろうか。

当然、ウイルスの拡大に対抗するには科学と政治と経済とが必要だ。

しかし実際に人を動かすのはウイルスではなく、人間の心そのものだ。

買占めに走るのも、それをSNSで叩いて回るのも、次亜塩素酸ナトリウムを服用するのも、心の作用だ。

心が不安に敗れれば、命は簡単に脅かされる。


不安がわたしを死なせる前に。

自身の心に蔓延する不安の存在を受け止めよう。
そしてそれに右往左往するのは馬鹿馬鹿しいと気が付こう。

誰かとコロナに関するあやふやな情報を共有しても、それでどんなに不安を分かち合った気になっても、安心は絶対に得られない。

それなら、夜な夜なオンライン飲み会で馬鹿な話に花を咲かせる大学生たちの方が、いくらか健康じゃないだろうか。

家でひとり不安に苛まれている時間を、どれだけ心を癒す愉しい時間に転化できるか。限られた時空間の中で、どれだけ意味のある行動を起こせるか。

コロナとの戦いは、
既にそういう局面に突入している。


あなたには自分のすべきことが見えているだろうか。


#COMEMO #NIKKEI

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