見出し画像

サッカーブームの終焉 日本のサポーター史の入口

スポーツを愛する多くのファンの皆様に支えられまして、Jリーグは今日ここに大きな夢の実現に向かって、その第一歩を踏み出します。
 

1993年5月15日にJリーグの開会を宣言した、川淵三郎Jリーグチェアマンの有名なスピーチ。時にJリーグは空前のブームとなり、日本のプロスポーツは変わった。

サッカー人気は、少なくとも4年に一度は沸騰し、ワールドカップで世界に挑戦する日本代表の姿は国民的関心事だった。しかし、2018年、Jリーグのスタートから四半世紀を経て、日本サッカーは危機に陥っている。ハリルホジッチ監督の解任により、サポーターの熱が失われた。ワールドカップ本番を約1ヶ月後に控えて、この静けさは異例だ。

しかし、過去にも日本サッカーはブームの終焉や冬の時代を経験していることをご存知だろうか。

えっ?Jリーグ以前はアマチュアリーグでしょ?という質問が返ってきそうだ。しかし、あるのだ、サッカーブームの終焉という歴史が。

1977年1月31日付けの朝日新聞は「『やる気なし』は『見る気なし』ファンそっぽ、観客ガタ減り」という見出しだった。

1969年には釜本邦茂が肝炎を発病。エースを欠いた日本代表は、初出場が期待されたFIFAワールドカップ1970メキシコ大会予選を惨敗した。前年にはアーセナルと対戦する日本代表のチケットをめぐり、国立競技場で暴動騒ぎを起こすほどに人気が爆発していた日本サッカーだが、1970年代は冬の時代となった。

1978年のソ連代表戦では観客数は8000人(主催者発表)に。1977年の日本サッカーリーグは平均観客数が1773人(主催者発表)にまで落ち込む。

一度は盛り返した日本サッカーだが1980年代末に危機に陥る。日本サッカー史上初の監督解任運動が起きる。

FIFAワールドカップ1990イタリア大会のアジア地区一次予選敗退。1990年に開催された第1回ダイナスティカップは韓国代表、北朝鮮代表、中国代表に3連敗。しかも無得点という無残な成績に終わる。1990年北京アジア大会ではラモス瑠偉、三浦知良を初招集するものの、日本代表はバングラディッシュ代表にしか勝てず敗退。ところが一連の大会を率いた横山謙三監督の進退問題はニュースにならなかった。業を煮やしたサポーターは、ついに監督解任運動、いわゆる「横山やめろ」を起こす。

署名提出後の最初の日本代表の試合は1991年4月4日のスパルタク・モスクワ戦。木曜日の午後にひっそりと行なわれた親善試合だった。そんな人影少ない国立競技場に「横山やめろ」がこだました。

日本サッカーは過去に2度死んでいる。

いずれも日本代表の戦績と連動している。日本サッカーは過去と同じように3度目の死を迎えるのか。未来はロシアでの闘いにかかっている。

**サポーターは日本代表と共に時代を歩み続けてきた。

再び立ち上がろう日本代表。**

日本のサポーター史(+KeLBOOKS)




ありがとうございます。あなたのご支援に感謝申し上げます。