見出し画像

今では信じられないJリーグ開幕時の出来事 日本のサポーター史の入口

1993年5月15日にJリーグはキックオフした。満員の国立競技場でサポーターのカウントダウンが0を絶叫したとき、小幡主審は試合開始のホイッスルを吹いた。

開幕戦のカードは、日本サッカーリーグ末期には2強と呼ばれた読売・日産。ライバル同士、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)—横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)であった。開幕戦のチケットは全席指定席。郵送申込みで販売され大きな話題を呼んだ。

チケットの平均抽選倍率は14倍だった。

どうしてもスタジアムで応援したいサポーターはあらゆる手段を使ってチケットの入手を試みた。座席はヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)側と横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)側で二分して席割りが行われた。しかし、横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)側の座席にちらほらとヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)サポーターの姿が混じっている。これは、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)サポーターが、横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)側の座席の方がヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)側の座席よりも抽選倍率が低いだろうと考えて郵送申込みを行ったために起きた現象であった。横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)のコアサポーターは東京体育館前に集結。NHKと全在京民放局、新聞、サッカー雑誌、さらには、日頃はスポーツの記事を取り扱わないHANAKOなどのトレンディ雑誌なども取材に入った。

NHK総合テレビで行われた生中継はサッカー中継史上最高を更新する32.4%(関東地区)の視聴率を記録。サッカー人気の高い静岡地区ではさらに高い38%を記録した。

こうしてJリーグはスタートした。

アイドル人気だったJリーガーは遠く手が届かなかったため、Jリーガーに準ずる存在として、サポーターも憧れの存在となっていった。サポーターに追っかけが現れた。

試合後には、有名サポーターと記念撮影を希望する女性で行列ができるのが当たり前の風景だった。

Jリーグ各クラブのオフィシャル商品はソニークリエイティブプロダクツが一括して製作。その専門販売店Category-1の一号店を新宿駅西口の小田急ハルク1階に開店した。応援グッズのみならず、Tシャツ、パーカー、ハットなど、スタジアム外で着用できるアパレルグッズも爆発的に売れ、街にJリーグファッションがあふれた。

試合開催日以外の日に、試合会場とは無関係の街でもJリーグクラブのユニフォームを着用する姿は珍しくなかった。

1993年6月に、Jリーグオフィシャルカフェレストラン「J–CLUB渋谷店」が宇田川町の渋谷ライズビルにオープンする。300インチの大型スクリーン設備を持った大型飲食店。試合の生中継を投映し、チケットを入手できなかったJリーグファンの人気を集めた。

日本におけるスポーツバー、スポーツパブはJリーグをTV観戦するために誕生した。

Jリーグは音楽業界にも大きな影響を与えた。WE ARE THE CHAMP ~THE NAME OF THE GAME」(THE WAVES)が大ヒット。

日本代表オフィシャル応援歌がオリコンヒットチャートの6位にランクイン。発売枚数は73万2000枚。

サポーターは日本にどのように誕生し、どのような道を歩んできたのか。この電子書籍には、多くのサポーターの証言をもとにした「もう一つの日本サッカー史」が記録されている。

日本のサポーター史(+KeLBOOKS)

今、改めて「サポーターとは誰で何をしてきたのか」を考えて見てはどうだろう。

ありがとうございます。あなたのご支援に感謝申し上げます。