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海外のサポーター事情から日本のサポ論を語れる時代は過ぎ去った。 日本のサポーター論の入口

なにやら小柳ルミ子さんが叩かれている。副音声での発言が選手へのリスペクトを欠いているというのだ。例えば「私はクリスティアーノ・ロナウドは好きじゃない。人間性が伴わない人は私は尊敬出来ない。」という発言が批判の対象になっている。このことがキッカケになり、サポーター論が沸騰中だ。

小柳ルミ子さんへの批判の声は辛辣だ。

そもそものところ、信じられないくらいの量の試合をテレビで視聴をされている小柳ルミ子さんの発言を元にサポーター論を語るのが適切なのか?とか、番組制作者は小柳ルミ子さんに極端な発言を求めておりJOYさんがそれを嗜めるというバラエティ番組風の構成だったのではないか?とか、地上波の通常放送でも有料放送のスカパーでもなく副音声なので限られた面白がって視聴する人だけが対象の放送なのではないか?とか・・・。

不毛なツッコミどころはたくさんある。

しかし、せっかくなので考えてみた。

海外のサポーター事情から日本のサポ論を語れる時代は過ぎ去ったのだ。

たとえスペインでは、バルセロナのファンがレアル・マドリードのサッカーを批判的に語ることが当たり前であっても、リバプールサポーターがロリス・カリウスを励まし続けても、その全てにJリーグサポーターが共感するわけではなくなった。昔とは違う。


Jサポーターの趣味嗜好、選択肢は多様化している。

Jリーグが誕生して25年間を経過した。Jサポーターは欧州や南米の見よう見まねをする時代は終わり、日本の文化・習慣に合った応援スタイルが生み出されてきている。そんな応援スタイルをアジア各国のクラブのサポーターが真似をしている例も多い。「本場のサポーターなら●●しているじゃないか!同じようにやろう!」と強く主張しているサポーターは「日本で普及している多種多様なチャント」「日本に多く存在する個人コール、個人チャント」を批判しているだろうか。

Jサポーターは自らの応援スタイルを欧州や南米よりも下と卑下する必要はないのだ。

近年は、海外のサポーター事情だけで日本のサポ論を語ると、とても浅い主張に見えてしまう。例えば、よく批判の対象となる、メディアの「スターシステム」や「(選手)個人(を追いかける)サポーター」も日本の大衆が、それを欲しているからJリーグ開幕元年から四半世紀を経ても存在し続けているだけに過ぎない。

プロ野球を見れば、スター選手目当ての観戦客が多いことがわかる。関心の薄いプレーが続く時間には、観客はビールを飲んで雑談したりトイレに行ったりしていることも珍しくない。また、スポーツではないが歌舞伎を見たことが無い人は劇場で見るとショックを受ける場合もある。誰もが物語の結末を知っていて、多くの歌舞伎ファンは役者を観に行く。「この役をこの役者がどのように演じるのか」が主な楽しみであり、物語全体を見に行っているわけではない。そして個人コールに相当する「大向こう」がゴール裏に相当する4階の立ち見席から飛び交う。多くのサポーターは疑問を感じているかもしれない。中には不満を抱いているサポーターもいるかもしれない。しかし、きっと理由はある。


日本の土着の信仰や風習、伝統的なエンターテイメントの楽しみ方が背景にあるのではないか。

サポーターライフは、私たちの人生。そして、祖先が歩んできた日本での人の生活の延長線上にある。だから、四半世紀前には見よう見まねで始まったサポーターのパフォーマンスやサポーター論も、時代と共に日本の文化と融合して変化してきた。

既に、多くのサポーターは日本独自のサポートスタイルを当たり前のものとして身につけている。そして、日本独自のサポートスタイルは、東アジア、東南アジア各国のサポーターに大きな影響を及ぼしてきた。アジアは欧州とも南米とも異なる独自の応援文化圏を形成し始めている。

Jリーグサポーターは、もっと自分たちのサポートスタイルに自信を持って良いはずだ。

例えば海外のサポーター事情に関する主張や、個人の経験談だけを根拠に「私たちはどうあるべきか?」を議論するのは、遠回りな気がしてならない。なぜなら、Jサポーターには、既にスタイルがあるから。むしろ議論は必要なくて、多種多様な価値観を認め合えばよいのではないか。付け焼刃な論争に揺らぐ必要はないのではないか。

(2018年5月29日に追記しました。)

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サポーター3年生からの日本のサポ論




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