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オメラスから歩み去る人々

アーシュラ・K・ル・グィン

#SF小説が好き
1975年の作品
SF短編傑作集「きょうも上天気」に収録


12ページの短い作品である。
SFは自由だ。恐怖。残酷。無慈悲。ありとあらゆることをテーマにできる。
もちろん希望も。ユートピアも。
未来のこととして、今のことを描くことができる。
私が初めて、「オメラス」という言葉を聞いたのは、WOWOWのドラマ、「MOZU」(逢坂剛原作)のセリフの中である。




オメラスという都市がある。
誰もが幸福に暮らすユートピアのような都市。
しかし、ここで暮らす人は幸福だが、単純な人々ではない。
彼らは複雑な人間だ。
オメラスの人びとが幸福に暮らせるのは、実は一人だけ、悲惨な状況の子どもがいて、その子の苦しみがオメラス全体の繁栄を支えているからだ。

オメラスの美しい建造物に、地下室、あるいは穴倉がある。
窓はなく、床はたたきで湿っている。部屋の間口は歩幅二つくらい。
奥行きは歩幅三つくらい。
その部屋に一人の子どもが座っている。男の子とも女の子とも見分けがつかない。六つくらいに見えるが、もうすぐ十になる。
その子は知的障害児だ。

以前は母親の声を思い出すことができるので、訴えかけた。
「おとなしくするから、だしてちょうだい。おとなしくするから!」
でも誰もそれに答えない。
以前は助けを求めたり、泣いたりしたのだが、いまはもう
「えーはあ、えーはあ。」と言うだけで、だんだん口もきかなくなっている。
やせ細り、衣類はつけておらず、自分の排泄物で体中は汚れている。

その子が地下にいることは、オメラスの人は皆知っている。
その子が地下にいる理由も知っている。
彼らの幸福が、この一人の子どものおぞましい不幸におぶさっていることだけは、みんなが知っている。

このことはオメラスの子どもが、八歳から十二歳の間に、理解できそうになった時をみはからって、おとなの口から説明される。
説明を受けた子どもは、穴倉に見学に来るが、実際にそこで見たものに衝撃を受け、怒りと憤りと、無力さを感じる。

その子のために何かしてあげたい。
でも彼らにできることは何もない。
もし、その子に何かしてあげたら最後、その日のうちに、オメラスのすべての繁栄と美と喜びは滅び去ってしまう。
それが契約の条件である。

はじめてその子を見て、この恐ろしいパラドックスに直面した子どもは、泣きじゃくり、思い悩むが、時がたち、この恐ろしい現実の裁きに気づき、受け入れ始める。

ときによると、穴倉の子どもを見に行った少年少女のうちの誰かが、家に帰ってこないことがある。
あるいはもっと年を取った男女の誰かが、ふいと家を出ることがある。
彼らは歩き続け、オメラスの都の外へ出る。
彼らは、オメラスを後にし、二度と帰ってこない。
彼らは自らの行き先を心得ているらしいのだ。


半世紀前にかかれたこのSFは、誰かの犠牲のもとに、平和な生活を約束されたユートピアが描かれている。
でも、オメラスに住んでいる人は、単純に幸せだとは思うことができない。
自分の幸福な生活を維持するには、地下に閉じ込められた知的障害児の存在が必要だからだ。
その子を助けたいと行動を起こせば、すぐにもオメラスの幸福は崩壊する。だから行動は起こせない。

でも、時々、オメラスを立ち去る人々がいる。決して帰ってこない彼らはどこに行くのだろう。
分かっているのは、彼らは自分の行き先を知っているらしいということだ。

少数の人の犠牲のもとに、多数の人の普通の生活が約束されている。
私にとっては、これはSFではない。
今現在の毎日の生活だ。
現実だ。
障害のある人、その家族。
無償の愛だとか、家族だからどんな犠牲を払っても、子どもを守るだろうとかいう、普通の人びとの勝手な思い込みによって、普通の人びとの普通の生活を守るために、障害者とその家族だけに犠牲を強いる社会。

やまゆり園に入所していた人たちの存在さえも、あの事件があるまで知らなかった人たちは多い。
やまゆり園と同じ施設は、日本中にある。
だけど、人里離れた目につかない場所で、暮らしている人々のことを思う人は少ない。
思わない方が楽だし、考えようともしない人がほとんどだ。

オメラスの人たちは、地下に閉じ込められた知的障害児の存在を知っていたのに。

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