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51年でたったこれだけのやさしさ

月に一度の長女の通院の日。
神経内科クリニック、9時の予約に間に合うよう、駅まで長女と歩く。
もう、何十年こうして通院しているのだろう。
今や、生活の一部となっている、通院と服薬。

毎月のクリニックへの道は、足取りの重い日もあれば、躁転して大声を出している長女を、追いかけている時もある。
ただ、いつも、なにか救いのようなものを求めているような気もしないではない。

それでも、時には、晴れた五月の空のもと、ジャスミンの甘い香りが流れる朝、なんだか、心の奥がすこおし温かく感じることもある。
心の奥から感じる温かさ、甘いような、嬉しいような、普段あまり感じないようなやさしさのような。

そして、おずおずと、心の奥から顔を出してきたその温かいやさしさに、とまどいながら、
「ああ、私の心の奥にも、こんなやさしさがあったのだ。」
と思う。

やさしさなんて、あまり持っていないと思っていた。
いつも、心の奥には、怒りのような激しさばかり燃えたぎっていて、それが私の原動力になっていた。
いらいらして、苦々しい思いをして、幸せなんて私には遠い世界だと思っていた。
実際、老い先短くて、貧しくて、不自由で、その上、手のかかる障害のある長女との暮らしは、決して楽なものではない。

それでも、五月の温かい日差しが降り注ぐ朝には、私の心の奥にほんの少しのやさしさが、顔を出す。
生きにくい世の中で、それでも、自分が納得するような生き方を選んできた。
困難ばかりであったけれども、後悔はしていない。
それだからだろうか。
心の奥にやっと少しばかりのやさしさ。

障害のある長女を育ててきた、この51年間ではぐくまれた、ほんの少しばかりのやさしさ。
51年間でやっと、これだけのやさしさ。

それでも、私の朝は、やさしさに包まれる。
やさしさは自分自身の心で育つ。
他人から与えられるだけではない。
自分の心から、放たれる。

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