見出し画像

なんともてごわい 今回の躁転

躁転してもはやひと月以上。
今回の長女の躁病は何ともてごわい。
もともと躁病に終わりは見えないのだが、穏やかになる気配がなかなか見えてこないのです。
少しは、良くなるかなあと思わせておいて、数時間後には激しく燃え上がるを繰り返しています。

医師に相談して薬の増量をしてみたのだが、
「のまない!」と激しい攻撃に合う。
「薬を飲まないなら、もう、お母さんとは暮らせません。
どうしますか?」と聞いてみるが、
「おかあさんはでていけ!」とくる。
よくもまあ言えたものだ。
「では、お母さんは出ていくから、ヘルパーさんを頼みます。」
と言えば、
「やだあ、やだあ、ヘルパーさんはこわいからいやだ。
でていかないでください。」と言って、やっと薬を飲む。
はたからみれば、これはやっぱり茶番劇。

長女の場合、その場にいない人を「こわいひと」と言う悪知恵が働く。
生活介護の園では
「おかあさんはこわいから、おかあさんにはいわないでください。」と言うそうだ。
(おかあさんはこわいというのを聞いて、スタッフは大笑いしたと連絡帳に書いてあった。)
その場にいなければ、「ヘルパーさんもおかあさんもこわい」と言ってはばからない。何と失礼な!

長女はへんな悪知恵が働く、かわいげのない障害者です。
マジカル障害者(一般受けする障害者)のイメージは、小ぎれいで、小柄で、子どもで、かわいくて、知的障害や精神障害ではなくて、足が不自由で車いすを利用して、思わずケアしてあげたいというような障害者なのではないかと想像する。着ている服もきっとかわいい。

介護専門学校で講師をしていたときに、受講生さんがよく言っていたこと。
「精神障害者、知的障害者、自閉症はこわい。肢体不自由はかわいそうだから、介護してあげてもいい。」
ケアというと、ほとんどの受講生さんは、高齢者のケアを連想しており、障害者についてはよく知らないという人が多数でした。

私がうちの子は障害者ですと言うと、
「いくつですか?」と聞く受講生さんが多かったのですが、
「成人です。」と答えるとシラーとして無言になることがほとんどでした。
障害児は想像できるが、成人の障害者は想像しにくいようです。

つまりは、「体力的にも、認知的にも自分より弱い立場の人がケアしてもいい対象」と考えているのだなあと思いました。

だけどね、かわいくないんです。
うちの長女は。
やっかいなタイプなんです。
見た目可愛くないし。
変な服の組み合わせしてることもあるし。
やたら体力あるし。
声が大きいし。
しつこいし。
160cmの体で地団駄を踏んでると、家が壊れそうです。
意味が分かっているのか、わからないのかは別として、憎たらしいこと言うのです。
やたら、こちらの心を傷つけてくるのです。

でもまあ、そういう人はたくさんいます。
親が依存症だとか、配偶者が認知症だとか、兄弟姉妹が精神障害者だとか、子どもが重度障害で、行動障害だとか。
そういう家族も多いのです。訪問の仕事で、たくさん見てきました。
でも、まあ、みんな、何とか、折り合いをつけて生きているわけです。
辛抱しているのです。

だけどね、ダイバーシティだとか、インクルージョンだとか、巷では言っているけど、それは、障害のある人と一緒に生活する社会ってことでしょう。
だったらね、社会の一番小さい単位の家庭の中でも、障害者が一緒に生活するってことが、インクルージョンの最小の単位なのではないのかな。
だったら、私のうちは、インクルージョンとして成り立っている正常な機能の家庭ってことになるのではないかな。

じゃあ、他の健常者だけの家庭はどうなのだろう?
私のうちが正常であると考えるのなら、健常者だけの家庭はもしかして異常と考えられるのかな。
正常は異常。
異常は正常。

そう考えてみたらね。
私はえらい。
インクルージョンを実践しているのだから。
しのごのいわず、襲い掛かる数多の困難に立ち向かい、インクルージョンを貫いている。

「合理的配慮」なんてまやかしの言葉使いません。

すべてのことに配慮する。これが私のやり方。

「合理的配慮」なんて合理的にありえないでしょ。

よろしければ、サポートお願いします。老障介護の活動費、障害学の研究費に使わせていただきます。