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くちびるに歌を

中田永一 作   2011年  小学館
  
2015年に、三木孝浩監督によって映画化されている。
中田永一は、乙一、山白朝子、枕木憂士などの複数のペンネームでも執筆している。
あの乙一が、中田永一で、この作品を書いたのだと知ったときの衝撃は、忘れられない。


五島列島の中学校の合唱部、音楽の先生が産休に入り、都会から、かつては神童といわれた、ピアニストの柏木先生がやってきた。
わけありで、ぶっきらぼうの先生。
合唱部は女子が多い。この中学も男子が少ない。
そんな合唱部に入部したいと悩む男子生徒、桑原サトル。
彼は部活はしていない。なぜなら、自閉症の兄アキオの送り迎えがサトルの仕事だから。
部活をしたら、兄のお迎えに行けないから。
悩みに悩んだ末、母親に思い切って打ち明ける。
合唱部に入りたい。
父親は反対するが、母親は今まで我慢してきたサトルが合唱部に入ることに理解を示す。
兄のアキオは、ものすごく記憶力がいい。昔のことでもしっかりと憶えている。今は親せきのかまぼこ工場に通っている。
工場への送り迎えは、サトルの役割だった。
母の協力を得て、合唱部に入部したサトル。
Nコンへ出場することになる。
その年のテーマ曲は「手紙~拝啓 十五の君へ~」(アンジェラ・アキ)
そして、部員たちは、曲を理解するために、「15年後の自分へ」という手紙を書くことになった。
サトルは15年後の自分に手紙を書く。


「いつも一人ですごしていました。
      ~略~
兄には人一倍感謝しています。
兄が自閉症でなかったら、僕は生まれてこなかったのですから。
両親は子どもを一人しか作らない予定でした。
兄が自閉症だとわかるまでは。
将来、兄だけが取りのこされたとき、一人での生活が困難になるだろうとおもわれて、両親は決意したのです。
自分たちが死んだ後、兄を世話してくれる弟か妹を作ろうと。
       ~略~
自分には使命がある。存在する意味がある。
生まれてきた意味がある。
兄といっしょに工場通いをして生きるのだと。
       ~略~
でも、たまに、みんなのことがうらやましくなるのです。
生きている理由を、これから発見するため、島を出ていくみんなのことが。                   
       ~略~
兄がいなければ、もっと自由に生きられるのに、というおもいがあったのではないか。
信じたくはないけれど。
        ~略~                                                                                 」

あまりにも、せつなく、悲しい手紙である。
15歳の中学生が、こんな追い詰められたような人生を、受け入れようとしているなんて。
サトルほどでもなくても、どれほどの数のきょうだい児が、どれほどの、悲しみを背負って生きてきたことか。

やってきた、Nコン長崎大会の日。
フェリーに乗って、九州本土へ渡った。
会場には、サトルの両親、兄もやってきたが、ホールに入って、合唱を聞いたのは、母一人だった。兄のアキオが、声を出したり、動いたりするかもしれないので、父親と外で待機していたのだ。
演奏が終わり、サトルの兄と父が会場へ入れず、演奏を聞けなかったことを知った部員たちは、ロビーで、歌いだす。
アキオと父親に聞いてもらうために。


映画では、渡辺大知が、自閉症の特性を本当によく理解して演じている。「ギルバート・グレイプ」の、レオナルド・ディカプリオに匹敵するくらいの演技だ。

この小説を読んで、思い出すのは、障害のある長女が中学生で、次女が小学生の時のことだ。
長女の下に、3人の妹がいて、私はとても忙しかった。
それこそ寝る暇もないくらいに。
次女は、市の少年少女合唱団に入っていた。
毎週土曜日の午後、コミュニティセンターで、合唱団の練習があった。
次女は、自分の活動に、
「お姉ちゃんも連れて行ってあげるよ。」と言って、一緒に合唱団に連れて行ってくれた。帰ってくると、
「お姉ちゃんは、後ろで、座っているか、寝ているよ。」と話してくれた。

まだ小学生だったのに。自分より大きい姉を連れて行ってくれてたんだね。
先生も理解のある人だった。
正直、長女が出かけている2時間ほど、私はとても助かった。
ある日、長女が、
「かたに~くいこむ~」と、合唱団で歌っている歌をくちずさんでいたのを聞いた。練習を聞いていて覚えたんだろうね。

本当にありがとう。
そして、ごめんね。

「ギルバート・グレイプ」の映画を見たとき、私は思った。
妹たちは、自分自身の道を生きてほしい。
ギルバートにならないように。
障害のある姉は、公的なサービスを利用して生活していけるようにしよう。

だけど、心はどうなんだろう。
私の町には、通所施設もあるから、親せきのかまぼこ工場に行かなくてもいい。
だけど、きょうだいに障害者の世話の負担をかけざるを得ない社会ってどうなんだろう。
障害者本人も、きょうだいも、安心して暮らせる世の中になってほしい。

親が死んでも、社会全体が、障害者を受け止めて、「犠牲」になる人を出さない世の中になってほしい。


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