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【短編】貴婦人の忠告

時計を見たら、23時20分だった。私は読みかけの本を閉じた。しばらく前から、本を読む習慣ができた。自粛の頃からだろうか、ネットニュースを見ると、ひどく疲れてしまうようになったのだ。なんていうか、頭がずしっと重くなるような感じ。ついでに、何かしようという気力もなくなる。前々から、長時間ネットサーフィンした後、気怠さとか首のコリとかあったのだけど、比較にならないレベルで、重い。それに、そのまま寝ると、悪い夢にうなされる。

病気というわけじゃないけれど、仕事の後のリフレッシュ時間に疲れるなんてごめんだ。そんなわけでネットニュース断ちを始めたら、困ったことに今度は暇なのだ、これが。

「自分の生活がスマホとネットに占められてるなんて、なんと底の浅い人生でしょう!」

「貴婦人」は、私を罵った。もちろん、私は舌打ちして抗議の態度を示した。

「ああた、読書でもなさいませ。疲れてスカスカな脳味噌に、変革をもたらしてくれましてよ」

「貴婦人」はウルサイババアだが、非常にまっとうな正論を言う。合わない正論なら採用しないけれど、これが結構、ハマることが多い。

そんなわけで、私は余暇を読書に当てることが増えた。

はじめてみたら、随分と楽になった。活字って、安心するのだ。同じ文字でも、ネットのような目まぐるしさがなくて、アナログらしい時間の味わいがある。波長のあう本に巡り会えたら、もう、最高。私の余暇は、とても豊かなものになる。

でも、この「波長の合う本」と言うのがむつかしい。読むものは、小説でも政治経済でもはてまた精神世界でも良いのだけど、その日その時の気分に合ったものがないと、「私の救いは何?」って気持ちになる。

「そういうのが嫌だから、私は読書をやめたんだった」

「でも、インターネットに触れるよりは、ずっとお疲れが軽いでしょう?」

そんなとき「貴婦人」は、またも正論を言った。

「ムカつく。そのとおりだよ」

「貴婦人」に対しては、つい思春期の女子みたいな言い返し方になってしまう。だって、ムカつくから。正論というのは、たまに暴力的な時があるでしょう。腹が立つことが多いし、言われたくないこと言われることも多い。でも私は思春期ではないし、意地になる以上に情報処理能力もあるので、結局「貴婦人」のいうことを聞いているのだけど。

 そのうちテレビにも疲れてしまうようになって、新聞かラジオで時事ニュースを得るようになった。新聞も、オンラインじゃなくて、駅のキオスクとかで買う。縦に折って通勤列車の狭いパーソナルスペースでも読めるようにする。これはこれで、フェイスガード代わりになっていいかもしれない、と思っている。

令和の世の中にありながら、私の暮らしはどんどん昭和方面へ逆行してゆく。最新のものに囲まれながらも、それらを生かさず、アナログに走ってゆく。

「心は穏やかになるから、まあいいんだけど。なんだかなー」

そんな折、姉一家が来ることになった。姉一家はとても変わり者で、ほぼ限界集落みたいな山の中に暮らしつつも、たまに実家に帰ってくる。一人暮らしの私のうちに来るのは初めてだったけど、姪は「貴婦人」に駆け寄った。

「こんにちは!」

え、嘘…。

「あら、お人形にもご挨拶できるのね!」

何も知らない姉は、「貴婦人」の前で大きな声で挨拶する姪を褒めた。

「ちょっと私、トイレ借りる。この子見ててね」

こちらが了解する間もなく、姉はサッとトイレに行ってしまった。

「あら可愛らしいお嬢さん、こんにちは」

貴婦人はつるつるとした陶器の傘を揺らす素振りをし、姪に挨拶した。姪は、ニコニコした。

「やさしいトートーが、いるよ!」

「えー、トートーってなんだろう?」

とぼける私の横で、貴婦人がケラケラ笑うと、姪はまた貴婦人を見た。この子、わかってる!

「ああた、ここは初めてね? 机の上の機械、あんまり見ちゃだめよ。ああたみたいに敏感な子は、とーっても、疲れてしまいますからね」

机の上には、仕掛かり作業中の私のパソコンが口を開けていた。

「わあ、ほんとだね! いーーっぱい、なんか、いるね!」

姪はおっかなびっくりパソコンの方を見て、楽しそうに「貴婦人」に言った。
見えないものが見える幼子の姪がいるせいだろうか、「それ」は私にもはっきり見えた。

うつくしいもの、清らかなものもさることながら…それを更に上回る、有象無象の、人の念。うらやましい、あの人みたいになりたい、そんな羨望と妬みが入り混じったようなもの、敵意、欲望を引っ掻く広告の悪意、人の不幸を覗きたい心の群れ、未知の病気への強い怖れ、理解されない痛みの心…こんなものが、どちゃっと百鬼夜行みたいにネット画面から溢れ出ている。

「ヒィッ!」

「貴婦人」は呆れたように言った。

「ああた、今頃、何をおっしゃるの?あれに気付いて読書始めたのでしょう?」

「あ、あんなの、気づかないよ!」

「だから、本の方が宜しいって申し上げたのよ。ああた、疲れていてあんなのに当たったら、すぐに憑かれてしまいましてよ」

「私の疲れって…」

「ええ、『憑かれ』でございます」

「ちかづかないよ! ちかづかないよ!」

高潔な「貴婦人」に、姪は喜んで約束した。

「あらあら、お嬢さんの方が、この家のご主人よりも、賢いわねえ!」

「貴婦人」の言葉に、姪は得意そうに頷いた。




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