『エビス・ラビリンス』試し読み(6)

「うっちゃって! 蝶子」 武太郎吉

 またミニ・クーパーだ。恵比寿駅の改札を出た駅前のロータリーで、千鶴は三台めのミニを見送った。南天みたいな可愛らしさで、今日の青空によく映える。
 もともと車に興味はなくて、カローラがトヨタなのかホンダなのかも判らない。でも、ミニ・クーパーが、もともとはイギリスの車なのに、今はドイツの会社が作っていて、ビー・エム・ダブリューがメーカーだっていうのは知ってる。
「あ、あの車かわいい。なんかのアニメで見たことある」
「『シティーハンター』じゃない? オープニングで赤いミニに乗ってる」
 多分、蝶子とは、知り合ってそんなに経ってなかったんじゃないだろうか。あの時、同じように目の前を通り過ぎたミニ・クーパーを見て、千鶴はなんとなく気になったことを、言葉にしてみただけだった。答えが返ってくると期待はしていなかった。
「それ! 学校から帰ったあとよく見てた」
「ミニ・クーパー1275S。クラシックミニね」蝶子は続けて言った。「何、興味ある? じゃ、『ミニミニ大作戦』みよっか。原題イタリアン・ジョブ。確実に邦題間違えてる。あっ、最近のやつじゃなくって、マイケル・ケインが出てる方ね。前半すっごく眠いんだけど、最後の三十分、クセになるよ」
 千鶴はマイケル・ケインって誰さと思いながらも、その後、蝶子とツタヤに行ってDVDを借りた。映画のお供は、チョコレートがかかったポテトチップス、キャラメルポップコーンとグリコのカフェオーレ。最後の三十分、千鶴は右手にポテチとポップコーン、左手にはカフェオーレを持ちながら、ずっと口を開けてた。
 電車に乗ったらどこにでも行けてしまうし、そもそも遠出をするたちでもないから、車を所有したいとは思わないけど、その日から、千鶴は買うんだったらミニ・クーパーと決めた。

 タシタシタシタシッ
 千鶴は恵比寿の街には馴染みがなくて、ちょっとした、よそ行き気分で商店街を歩いていた。しかし、後ろから聞こえてくるその軽快な音には聞き覚えがある。おそらくは爪とアスファルトが擦れ合って出る音。ほんの少しだけ早歩きになり、左右に首を巡らす。すぐ先に、ガラス扉が開け放たれている店舗が目についた。考えている暇はない、千鶴は店内へ飛び込み、扉の内側から外の様子をうかがう。やはり犬であったことを確認して、ほっと息を吐いた。あれはなんて種類だっけ、白いほわほわの毛。棉花に爪楊枝が四本刺さったみたい。丸い……
「ポメちゃんだ。可愛い~」
 その声に反応したポメラニアンとその飼い主が、こちらを振り返る。正確に言えば、千鶴の後ろにいる声を発した人物を、である。飼い主は一歩も動いていないのに、何故だかポメラニアンがグングン近づいてくる。紐、紐が伸びている。まさかの伸びるリードだ。瞬間、つぶらな瞳がキラリと光ったように思えた。
 タ、タシッ
 一メートル先から、万歳をしたポメラニアンがコマ送りで拡大されてくる。
「ひっ」千鶴は、たまらず仰け反りその場に尻餅をついた。長さの限界に達したリードにより、ポメラニアンは空中で逆さまになって、その後、お尻から地面に落ちていった。扉まであと数センチ。ぶつからなくてよかった。
「まぁ、驚かせてごめんなさいね。ディディちゃんたら、女性を見ると夢中になっちゃって」
(続く)


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