『エビス・ラビリンス』試し読み(9)

「カフェ ムジカ」 島田 奈穂子

 東京に住んでいる兄が、音楽をやりたいから会社を辞める、とゴネているらしい。
「せっかく栄転できたっていうのに、三十すぎで無職なんて人生台なしやん」
 電話口で泣きそうな母親の声を聞きながら、わたしは羊毛フェルトを針でつついて小さなクジラを作っていた。そのときは正直、めんどくさいな、と思った。
「あんたからも言うたってよ。あの子、あんたの話なら聞く耳持つとこあるから」
 母親の話によると、兄は転勤して以来よく出入りしていたカフェのアコースティックライブに、すでに何度か出演しているらしい。小さいころから歌手になりたいと言ってはいたが、とっくに諦めたと思っていた。
 電話を切ったあと、さっそく兄のスマホへメッセージを送った。すぐに反応はなかったが、風呂に入っているあいだに返事が着ていた。
〈止めても無駄やぞ。成功するとかせえへえんとかの問題じゃないねん。音楽はオレにとって求道やねん。お前にはわからんやろ〉
 大の大人の血迷った本気に、背筋がぞっとする。
〈つまり兄貴は修行僧になるってことか?〉
〈は? 何ゆうてんねん。オレはミュージシャンになるんや〉
〈たとえ話始めたんそっちやん〉
 テーブルの上の、まだ作りかけの不細工なクジラがこっちを見ている。指で弾くとなんの抵抗もなく向こう側へ転がり落ちた。実家でよく耳にした兄の歌声を思い出す。壁越しに聴くそれは、歌詞の意味が濾過され、エモーションのみ残したうなり声のようで、音程も曖昧なら心地いいとも言えず、つまり、その程度だった。なんだか、無性に腹が立った。
 話は終わったとばかりに返事がぱたりと止んだので、〈おいコラ聞いとんか? とにかく一回、兄貴のライブ観させてよ。話はそれからや。嫌とはゆわせへんで〉と、追い打ちをかけると、ぴしゃりとたたきつけるように店のURLが送られてきた。
〈えびす カフェムジカ〉
 今週の土曜日、その店のライブに出演するらしい。

 東京行きを決めた翌日、職場でのお茶の時間に、同い年で派遣社員のハナちゃんに話をふった。「あさっての土曜日、兄貴に会いに東京のえびすに行くねんけど、えびすってどんなとこ?」兄に会う理由については伏せておいた。
 ハナちゃんは回転椅子を揺りかごみたいに左右に揺らしながら給湯室で淹れたハーブティを飲んでいた。彼女は埼玉県出身で、旦那さんの転勤で大阪に来る前は、東京のデパートで働いていたらしい。わたしたちは某繊維会社の大阪支社で事務職をしている。
「恵比寿は、スタイリッシュなオフィス街ってカンジだよ。ガーデンプレイスが有名だよね」と、ハナちゃんは小鳥が囀るような標準語で言った。「電車がホームに入ってきたときの音楽が、エビスビールのCM曲なんだよ」
「へえ、そうなんやあ」
「そうそう。で、駅前にえびすさんの銅像があってね」
「東京の人って銅像好きやんなあ」
「ランチが美味しいお店知ってるから、あとでリンク送っとくよ」
「ありがとう。でもな、兄貴と会う店はもう決まってるねん」
「そうなんだ。ちなみに恵比寿のどこらへん?」
 まんじゅうを口に詰めこんでからスマホをスクロールし、兄から送られてきた店のホームページを見せる。ハナちゃんは「ちょっと失敬」と呟きながら、差し出された画面を長細い中指で触った。まるでまぶたにアイシャドウを塗るときみたいな仕草で、そいそいと画面を操作していたのに、急に顔を曇らせて「アッ、ごめん」と言った。「ここ、あたしが言った恵比寿とは違うわ」
「エッ、どういうこと?」
(続く)


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