『エビス・ラビリンス』試し読み(5)

「炒飯を食べる」 中村譲

「そろそろ運動をしてみましょうか」と医師が言った。
 休職を経て会社を辞め、自宅療養という名の引きこもりになって、およそ一年が経とうとしていた。
 恵比寿のクリニックを選んだのは偶然だ。電車の乗り換えの際にどうしてもオフィスに足が向かず、何も考えられないまま駅前をさまよっていた時、たまたま見つけた電柱広告の矢印の示すままに訪れたのがここだった。幸いにも予約なしでも診てくれて、その日のうちに眠剤その他の薬剤と、翌週には会社へ提出するための診断書を出してくれた。それ以来週に一度通いつづけ、医師と面談をし、薬を調整してもらっていた。
 生まれてこのかた体育以外で運動はしたことがありません。哀願のような調子になった。子供のころから運動は強いられてやるものでしかなかった。仕事と同じだ。
「スポーツをしろと言ってるわけではありません」
 医師は視線を手元に落としたまま喋った。苛立った顔を患者に見せたくなかったのかもしれない。
「激しい運動をする必要はないのです。いまの日常の動作よりも少しだけ負荷の高いことをしてみましょう」
 返事をしなかった。
「自覚はないかもしれませんが、ずっと休養を続けていたせいで、お勤めをされていた頃に比べて体力は随分と落ちているはずです。ここのところ良い状態が続いていますが、さらなる回復のためには体力を戻す必要があるのです」
 回復と言われても実感はなかったが、どんなに欲しても二時間以上眠れない夜が続くことはたしかになくなっていたし、いくつかの顔や声を思い出してもひどい動悸はしなくなっていた。
「それで何をすればいいんでしょう」
「まずは歩きましょうか」
 というわけで散歩を始めた。
 
 まずは一日一回、運動のできる靴を履いて外に出ることにした。何ヶ月も寝たきり同然の生活だったので、最初はものの十五分も歩けば座れるところ探す有様だったが、それでも徐々に距離は伸びていった。
 弱ったのは薬の副作用だ。服薬開始の頃に比べてそれなりに落ちついてはいたが、散歩をはじめてからは再び強く出るようになっていた。
 目眩がひどい日には、アスファルトがゴムのようにうねった。踏み出した足がめり込むように感じた。傾斜のある道ではさらに顕著で、いまにも転びそうな気がして坂の途中でよく立ちすくんだ。
 耳鳴りは、気圧の低い日に強かった気がする。痛みに近い高い音が鳴り続ける。まったく揺れない音というのは聴いていて居心地が悪い。車通りの激しい道など騒音のある場所を歩いている時はまだ我慢できたが、静かな住宅街などで起きると、頭を電柱に打ちつけたくなった。いろいろ試したがもっとも効き目のあった対処法は独り言をいうことだった。ただ、一度警官にしつこく職務質問されてからは時と場合を考えるようになった。
 もう一つが食欲の亢進だ。とにかく腹が減る。正確には、腹は減っていないが食べたくて仕方がなくなる。休職直前には、何を食っても味がしなくなり、味気ないとはこのことかなどと言っていたら、見る間に十五キロほど痩せてしまった。それが通院するようになり、何回めかの処方の変更で劇的に反転した。医者には回復の兆候と捉えましょうと言われたが、胃はもたれるし食費はかかるしで良いこととはまるで思えなかった。散歩の途中でもしょっちゅう買い食いや外食をした。
 ある時いつものように恵比寿界隈での散歩の途中に昼食をとった時、炒飯を食べることを思いついた。恵比寿には食べてみたい炒飯があるはずだったことを思い出した。
(続く)


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