人間ヘタクソな会社員の私
私は、人間が上手じゃない。ほんとうは吸血鬼だから、妖怪だから、付喪神だから、人魚姫だから、なんでもいいから、だから人間じゃありませんよとヒミツを打ち明けてもらえるのをずっと待っている。
そのような気配は、でも20歳後半になっても微塵もなかった。妹は結婚した。弟は彼女と同棲して出ていった。
私は、まだこの家に残る。
なぜ? 人間がへたくそのせい? パチンコから帰ってきたパパは玄関で酔いつぶれて、布団までひきずって運んだ。ママが夕食を作るというから任せたら、すべてデパ地下で買った惣菜品になった。なぜ? それとも、皆が皆、こういう生活なんだろうか。私は今月の生活費と書いてある封筒をひらき、ゾッとした。これも私が下手くそだから、か。
「小学校でいっしょのミワちゃん、わかる〜? デパートでママと会ったのよ。子ども連れてて可愛かった。うち、まだかしら。年齢的にアンタならもう2人はいてもおかしくは無いのよ」
「そだね、ママ。ごめんね」
「おい、ここに入ってた金はどこいった。酒代が足りねえじゃねえか」
「給料日、明後日だから。それまでは待ってて」
ち、と、ママとパパは舌打ちした気がする。
ああ、私が下手くそだから毎回こう。白米にぬか漬けの野菜をのせて食べ終えて、私は支度を終えて会社のドアを押した。入れ替わりに、重量感のある人影がドアをくぐろうとした。肩がぶつかってよろける。私が。
「おっと。だいじょうぶ? 溝沢さん」
保管書類を詰めたダンボールを肩にかついだ男性社員。中川さん。中川さんが、さりげなく私の腰を手で支えた。
自分の足で立ってみせて「はい」、うなずくと中川さんは快活な笑顔になる。それから、
「あ、おはよう! スゴイんだよ溝沢さん、社長はハワイ行ったんだって。休憩室、マカデミアナッツチョコが食べ放題だよ。5箱くらいあるんじゃないかな?」
「わ。それは、事件ですね。今日のお昼は休憩室ですね、うちは弁当ですからどっちみち休憩室ですけど中川さんもじゃあ休憩室組ですか」
「おうともさ。コンビニ飯にして、あとはマカデミアナッツチョコ天国だよね」
中川さんは笑いながらすり抜けていって、未処理のものとダンボールを交換してまたパソコンルームに戻ってくる。私は、私のデスクでもう用意をはじめている。
……マカデミアナッツとチョコレートと、中川さん。
私は、下手くそだから。心臓がぽかぽかしてそわそわする、この感覚が苦手だった。お昼休憩が楽しみだなんてそんな。そんな感情が私にあるなんて、おかしい。なのに。
お昼まであと1時間もない。品番管理の打込みをぜんぶ終えたらしく、中川さんは一足先に気が抜けた顔つきになって時計をひんぱんに覗くようになった。私は、エクセルでまだ来月の新商品の卸先リストを作成している。これが、無駄に終わらない。いつものことだけれど。営業の垣本さんが帰ってこないとわからない部分もあるから、面倒くさいけど、これもいつもそうだ。
手持ち無沙汰そうにお昼まであと30分の時計を眺めながらそうだ溝沢さんって今月が誕生日だよねと、中川さん。はい。事実だからすぐに返事をした。
「コンビニでなんかおかずおごったげるよ〜。何を食べる? 俺、唐揚げ買うけど溝沢さんも唐揚げにする?」
「え。いいんですか」
「給料日前は日の丸弁当にしてるよね。せっかく、デザートあるんだし溝沢さんも肥えたほうがいいよ。チャンスだよ。何が食べたい? 溝沢さんは」
えっと。私はくちごもる。ああ。ああ、あああ、ああああ。私がもっと人間が上手ならよかったのに。なんで私は下手くそなのに、人間でいなくちゃならないんだ。
顔が汗ばんで全身がカッカした。やっとの思いで「……唐揚げをおねがいします」と、言えた。中川さんがガッテン承知と社長のくちぐせをコピーしてふざけた。
お昼休憩は、ふわふわした。ふらふらするほど頭とお腹と胸がいっぱいなった。梅干しと白米と唐揚げ、それにデザートのマカデミアナッツチョコレート。なんてぜいたく。中川さんは、私に話しかけながら、隣の椅子にきてくれた。ぜいたく。
定時になって、私はいつもどおりに立ち上がる。まだ打込みをやるらしい中川さんは立たず、でも私の名を呼んでくれた。お疲れ様でした、今日は楽しかったねえ、なんて言う。
「はい。……お疲れ様でした……」
顔が、にゃるにゃるする。ぬくんで内側に陥没するみたい。顔がいびつでいつもと違っていて、たぶん、私は中川さんを鏡に写したみたいに、笑っている。笑顔まで下手くそだろうから、ちょっとだけハラハラした。
会社のドアを閉める。
下手くそな私の、下手くそな仕事が終わる。帰ってみるとやっぱり家のなかは昨日と同じで荒廃していて、私は玄関で寝ているパパの片付けをまた始めた。ママの靴がない。ママもたぶんパチンコだろう。
パパを寝かせて、夕食の支度。芽が伸びてきたジャガイモを剥きながら、もっと人間が上手くなりたいな、とばくぜんと祈った。せめて妹みたいに、あるいは弟のように。
それか、おまえは人間じゃないからね、とパパかママに、言ってもらいたい。楽になれる。私はつらさを感じなくなるはず。人間じゃなくなるんだから。
ただ、最近はこういういつもの妄想をすると胸がチクリとする。それが憂鬱なようなくすぐったいような、不快感をともなった。私はどうしてか、すると中川さんの声を思い出す。中川さん。人間が上手な、中川さん。
中川さんは、すてきだな、野菜の切れ端煮込みにカレールウを投入しながら、人間上手をうらやましがる私は、やっぱり圧倒的に人間が下手くそなんだった。私が妖怪なら、私は人魚姫あたりが妥当な気がしてきた。
人魚姫なら、ゴールがひとつだから気が楽だろう。中川さんにもっと話しかけても、ゴールが決まっているから怖くないはず。
コト、コト、カレーが沸騰する鍋を見ながら、人魚姫になれた自分と中川さんに恋やぶれてそれっきりで何も考えなくてよくなる私自身について、妄想した。
たのしい。たのしい、妄想だった。カレーの火をとめた。カレーが煮えた空気で台所は暑い。
……人魚姫なら、カレーなんて煮ない。
やっぱり、ただ人間が下手くそなんだな。妄想の味が砂を噛むようになる。から、マカデミアナッツチョコレートを思い出した。
美味しかった。あんな味が五臓六腑に浸透すれば、今より少しばかり人間が上手くなれるの、かな。
END.