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【小澤征爾に認められた指揮科の学生】 ウィーンで出会った北朝鮮人の学友たち 弐

こんにちは、ファゴット奏者の蛯澤亮です。ファゴットの演奏やコンサートの企画や運営などをしています。

さて、今回はシリーズ、北朝鮮人の学友たち。横田滋さんの訃報をきっかけに書き始まったこのシリーズ。今回も昔を思い出して書いてみます。

前回の記事はこちら


前回書いた元サッカー北朝鮮代表の彼については、ドイツ語学校で知り合った友人も覚えていてその時のことを話してくれました。

最初の自己紹介で

「どこから来たの?」

「朝鮮だよ」

「どこの街?」

「平壌」

「ピョンヤン??」

・・・それどこだっけ?

その日本人の友人はそれが北朝鮮だとわかるのにしばらくかかってしまったそうですwww

でも確かに、外国でいろんな国の人と接しているときに平壌と言われてもパッと思い浮かびませんよね。私も「北朝鮮」でなく「平壌」と言われたら一瞬「は?」と思うと思います。

そしたらその友人は

「彼の父は北朝鮮のオリンピック委員会の副会長だって聞いたよ」

って新情報w

もちろん裕福な特権階級だとは思ってましたが、やはり具体的に聞くと実感しますね。ごく一部の富裕層なんですね。



さて、大学に通うようになってさらに北朝鮮人と出会うことになります。

私はウィーン私立音楽院大学(変な名前だが直訳はこれw)にいましたが、ウィーン国立音大の指揮科のオーケストラによく行っていました。七割が外国人のウィーン国立音大なので白人以外もたくさんいましたが、例え亜細亜人だとしてもそれがどの国の人なのかははっきり分かるものではありません。服装や雰囲気でなんとなくわかりますが、それこそ裸になって並んだら誰が日本人かもわからないでしょう。

指揮科にもたくさんの亜細亜人がいましたが、当時数人の北朝鮮人がいました。

その中でも特に優秀だった学生は僕から見ても学生の中でしっかりと個性を持ち指揮のテクニックもありました。彼が指揮台にのぼると急に音が締まったものです。その物言いやアプローチにみんな笑ったりしましたが「そうか、それでやってみよう」と思う魅力が彼にはありました。

当時ウィーンフィルのリハーサルは基本的に無料で聴けたのですが、そこでもよく会いました。(最近はチケットが必要だそうです。当時は指揮者が禁止していなければ誰でも入れました)


当時ウィーン国立歌劇場音楽監督だった小澤征爾のレッスンを受けた時も高評価を得て、小澤征爾が「彼なら面倒を見ても良い」と言っていたそうです。そのことは彼にとってとても悩んだ問題だったのでしょうが、結局お国に帰りました。おそらく自由に動くことも許されなかったのでしょう。彼は世界に羽ばたける才能を持っていただろうに今も閉鎖された北朝鮮のどこかで指揮をしているのでしょう。いや、指揮を振らせてもらえる立場にいれば万々歳なのでしょう。

かつて東側にいた音楽家の多くが西側に亡命して活躍をした時代がありました。第二次大戦中のユダヤ人、ソ連人、東ドイツ人など、亡命をすることで活躍できた音楽家も多かったものです。北朝鮮人の彼らもいつの日かその才能を世界に出す機会があるのでしょうか。日本は終戦という言葉を使って平和であると錯覚している人も多いですが、国によっていろいろな事情があり、自由を奪われている人たちもいます。日本を悪くいう人もいますが、世界基準は日本の基準とは違います。現に日本人の何人もが北朝鮮に拉致され、囚われています。


いつだか、彼が北朝鮮の新聞にインタビューが載ったと記事のコピーを指揮の先生に送って来たようです。そこにはウィーンで学んだことや教授たちへの感謝が書かれていたそうです。それをもらった指揮科の先生はとても喜んでいました。先生も北朝鮮に帰ったことを残念がっていたし、どうしているか思いを巡らせていたので元気に活躍していることが嬉しかったのでしょう。私も元気にやっていることが嬉しかったものです。

久しぶりに純粋で一途な彼の顔を思い出しました。音楽だけでなく、人間的にも純粋な人だったんだろうと、その顔だけでも感じます。そういえば彼はサングラスかけていたな。北朝鮮人では珍しかったかも。背が高く、ガッチリしていたこともあったけどとても見栄えがする男でした。指揮者にとっては持って生まれた長所ですね。男としても羨ましいw

今回はそんなところで。このシリーズはまだ続きます。もう少し思い出しながら書きたいと思います。彼らは純粋に音楽を学んでいたんだろうと思います。

一日も早く拉致被害者が帰国されるのを願っています。

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