江戸辻斬り

まばたきほど、コンマ一秒の瞬間が生死を決した。日本刀の波紋に鮮血が貼り残る間もなく彼がそれを分断する。ややもすると呼吸も止まり、全身にびちゃっとした噴汗を覚える。

刀を右手の奥にうっちゃって、飛び出した肢体を押しとどめるべく、左手で土を強く踏む。右手に痺れるような快刀乱麻の手応えがある。確かに、肉を斬った。心の臓がざわめき、ふり向くのがためらわれた。実際には躊躇なぞないかのようにふり向き、惨殺した死体を目に確認した。

(や……、やった……)
若き公方は、手の内をじんじんと痺れさせながら、はじめての人斬りの感触と、この成功に目の色を変える。

喉をふるわせ、告げる。
このために、この数ヶ月はすべてを懸けたのだ。この邪悪な欲望を達成すること、それが若き公方の夢だった。ゆがんだ夢だった。
顔見知りでもない、なんのつながりもないおんなが、江戸の暗がりに倒れて出血している。胴を上から斬り伏せて彼女ごと薙ぎ払って刀をおろした。刀のきっさきに、ぽつ、と小雨が触れる感触がした。見れば、わずかな、一滴ほどの血液が伝い落ちていく。

(やった。やった。これでおれも人殺しだ)

話を聞くたびに、公方は秘かに胸を躍らせていた。この刀で、斬ってよい。ひとを斬ってみたい。この剛刀を試してみたい、そう思わせる魔力が、過日に献上されたこの日本刀にはある。公方は毎日、鍛練として刀をふりながら実のところ、人体ほどの肉を斬る想像が尽きることなく溢れていた。

それが、今。

「――辻斬り、御免!!」

一生に一度は言わねばならぬ、ゆがんだ男のゆがんだ願望が、江戸のゆがんだ免罪符をおんなの骸へと叩き付ける。辻斬り、辻斬り!! やったぞ!!
歓喜に胸をふるわせながら、若き公方は闇へと身をひるがえし、逃げた。

江戸の闇では、辻斬りはめずらしいものではない。



「にんげんって。やっぱり、素が邪悪なんだよ」
「ん、なんだ、性悪説か? お得意の」
「だってさ。江戸時代なんか、辻斬りが横行したっていうし、アメリカとかアフリカじゃ射殺なんて日常茶飯事だしさ。ひとを殺せるなら、ひとを殺したいんだよ、ひとは。だって基本、自分以外の誰かって、邪魔だからね。なんの罪咎がなかろーが、邪魔だからね。目の前に立たれてるだけで不快感があるからね」

図書館で向き合って、読書会なぞしていた歴史研究会の同級生、シンジが片眉を器用に跳ね上げる。
ふふ、と、まだ中学生の少年は、できるだけ邪悪に笑おうとした。
そうしたほうが格好イイと思ったから。

「ぼくの祖先、辻斬りしてたらしいんだよ。そういう手記が残っててさ。本当なのかなー、ぼくずっと気になってるんだ」

やや、考えたのち、シンジは釘をさしにきた。
「その時代にはその時代のルールだろ。逮捕されるよ、おまえ」
「はぁ~っ。言ってみたいな、それだけのためにやってみたいな。辻斬り御免! ッて。かっこよくね? ご先祖さまがまじもんの辻斬り者だったんならやっぱカッコイーからやってたとおもうんだ、ぼくは」

「逮捕だ」
シンジは、面倒くさくなったのか、実にそっけなくその返事しかしなくなった。少年は偏った思想に耽溺して微笑むが、やがて読書に戻る。図書館には静寂が残される。かつて、江戸の闇がそうであったような、静けさ。



END.

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