溺死寸前のあるダイバー目撃譚

もはやこれまで! など、時代劇がごとく脳裏に絶叫した。本業OLの三礼子は、たまに、半年に1回くらいに沖縄の海に潜っては、趣味のダイビングを楽しんでいる。
しかし今、そのダイビングが、三礼子の命をとりにきた。人間が本来ならば生息できるはずのない海の世界のことだ。これも、仕方ないのかもしれないな、と三礼子の胸のうちでだれかが囁いた。

海のなかは不思議な場所だ。音がしない。色があざやかで青い色水に満たされて、無重力空間にいるように全身がふわふわする。地上では絶対にありえないことばかり起こる。海の生き物はときに見たこともない形状をしているから、三礼子はダイビングの前後には魚図鑑を読むのも楽しみだった。一度なんて、ウツボに遭遇した。三礼子のがすぐに逃げたが。

しかし今。ダイビングは、三礼子を死に至らしめにきた。青いダイビングスーツに身を包み、アルミ製のガスタンクを背負って、タンクからホースでつないだレギュレーターで呼吸を行っているが、ガスの残量はごく僅か。それなのに、三礼子の水掻きであるはずのダイビングフィンは、両足ともがそろって岩礁のすき間に引っ掛かって取れずにいた。

ちょっとした出来心だった。人魚のように――、すい~、と、岩のすき間を潜ってみよう、それだけの好奇心だ。

好奇心は猫を殺すとか言う。まさにそれだ。三礼子は1人でフラフラと泳ぎだした果てに人魚のまねごとなんかしてしまったから、仲間のダイバーも近くにはいなかった。ここは海のそこだ。誰もいない世界だ。
シュコーッ、シュコーッ、レギュレーターから呼吸を取り込みながら、三礼子はもはや震えるというよりも涙ぐんでいる。腹がじくじくして、胃が塩っ辛くてたまらない。酸欠で溺れ死ぬのが単に非常に怖かった。

そんな折りだ。

ス、と何かがダイビングフィンに触れた。岩礁のすき間に嵌まっている両足のヒレを、左右それぞれ同時に引っぱって、岩からはずそうとした。前か後ろか、どちらかにしか動けない三礼子には、できない力の加え方だ。
結果、1分ほどのやりくりで、フィンがはずれて三礼子は自由になった。慌てて前へと泳ぎ、それから三礼子は仲間のダイバーをふり返った。

ここは海のした。助けてくれるなら、それは、一緒に潜っている仲間のうちの誰かだ。絶対にそうであるはずだ。

ところが、助けてくれたそいつは、見たことがない顔だ。タンクも背負わずレギュレーターもつけず、しかも全身が青い。青いダイビングスーツの色に似ているが、それよりもっと青かった。両足のダイビングフィンはこれ以上無くフィットしていて、見たところ、フィンそのものが自在に動かせるらしかった。
実際、そいつは、三礼子の目の前でヒレだけを動かしてあとずさりした。海面から差し込んだ太陽の明かりが、全身青色のそいつをキラキラとひからせた。あ、ウロコ、と、魚図鑑を読み込んでいる三礼子にはわかった。ウロコを全身に着ている、このひとは。

ひと? は、ヒレを波打たせて、下半身をもんどりうたせて、器用にもさらにあとずさりして、三礼子を向きながら、三礼子を観察しながら遠ざかっていった。そして遠いところまで戻ると体を翻してあっという間に泳ぎ去ってしまった。

シュコココーッ、シュコココーッ、シュココココココーッ。

三礼子のタンク消費は、跳ね上がったままだ。心臓が荒々しくはずんで酸素が必要で、呼吸が増えてしまう。息苦しくなってきた。混乱のうちに、三礼子は太陽をもとめて上昇した。海面に顔をだし、レギュレーターを即座にはずしにかかって、悲鳴をあげた。まだだれも、仲間の誰かは海面に顔を出しに戻ってはいなかった。

「に、人魚!! 人魚見たーっ!!!!」

その日、ずっとからかわれることになるのであるが、三礼子は主張を取り下げるなんぞできるはずもない。なにしろ、本当なんだから!
三礼子は、全身が真っ青な人魚に助けられたのだ!



END.

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