契約の特記事項は命にかかわります

日が昇る。人魚姫の命は、日の出までと魔女によって定められた。人間の脚を得る代わりの契約に声を失い、家族らによって王子を殺せば人魚姫に戻れるとの契約が新たに交わされたが、いつの世でも契約はあぶない。

家族らによる新規契約は、契約が履行されなければ人魚姫が人にも人魚にも戻れずに『海の泡』と化す、と特記事項が記してあった。

家族らは、まぁなんとかなるだろ、気にしなかった。

所詮は人魚なのである。人魚姫がほんとうに人を愛して王子様に恋して、自分のほうを犠牲にするとは想像しなかったのである。実際には? 
物語として語り継がれているとおり、人魚姫は、海の泡と化けた。

さらに、実際に、人魚姫は魔女を恨むことも運命を呪うことも、家族をうとましく思うこともなかった。人魚の尾を捨て、陸にあがってから、どこぞの修道女のように人魚姫の心の水面は凪いでいる。人と暮らしてみて、海の命を貪る彼らを見て、生態系があまりに違う彼らを目の当たりにして、人魚姫はちょっぴり人間に失望した。それでも恋心は失われなかった。それでも、人間には、失望したのである。

だから、人魚姫は、海の泡と消える我が身をどこか心の隅で喜んだ。

恋した王子様は好き。でも人はきらい。でも人魚姫には、もう戻れない。丘の生活に染まったこの身では海には戻れない。

だから、消えて無くなるのでよかった。
人魚姫は砂浜からしずかに、朝日の赤光をながめる。彼女の家族らが涙して、魔女は複雑そうに遠巻きの海から頭をのぞかせて、早朝すぎるので王子様をはじめとする人達には誰も気づかれなかった。

人魚姫、泡へと溶ける――


その後、魔女との契約書には、海の生き物たちみんなが特記事項まで目を凝らして隅々まで入念にチェックするようになった。非常にうたぐり深くなったのである。魔女は、複雑そうに、日々の雑務と各種の契約を交わした。

ときどき、魔女は彼女を思い返す。人魚姫。あんな、あんな理不尽な、しかも家族が勝手に買わした契約書のせいでああなったのに。
なのに、魔女を憎まなかった彼女。

「……可哀相なことをしちまったね」

非道とうわさされる魔女にも、後悔はある。
一匙ほど、渋い苦汁に満ちた、手遅れの悔恨であった。


END.

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