ひとさんらん事変(たんぺん怪談)

「妊娠していますね」
はきはきした声で医者がおっしゃる。

リコは、おおきくなったお腹を抱えながら、やっぱり信じられずに医者を糾弾した。
「そんなわけないんです。妊娠してるわけないんです。なにかの間違いですよ、先生」
「妊娠していますよ?」
「あたし、セックスしてないです」
「うーん」
せまくるしい医療室は、ところせましとファイルや医療器具などが棚に詰めてある。田舎町の片隅にひっそりと開業している、ちいさな医者だ。産婦人科もあるが、町のほとんどの人は、駅前病院に向かう。
リコは、わざわざ学校をずるやすみして、午前中のこの時間に、このさびれた人気のない医者のところを訪ねた。

おじいちゃん医者と、おばあちゃんの看護婦がほとんど2人だけで運営している開業医である。
医者は、さらにおっしゃった。
「避妊具をつけててもね、あるんだよ。妊娠しちゃうことあるの」
「そういう意味じゃありません」
「でも、妊娠してるんだよ?」
悪い子どもに言い聞かせする口調になって、おじいちゃん医者は人差し指でリコの腹を指差した。

「ほら、おおきい。わかるでしょう?」
リコは、目の熱さを我慢した。今すぐにでもイスから身を投げてわんわんと大泣きしたい気持ちがする。それを耐えるのは、足の先から頭のてっぺんまでを覆う、尋常ならざる恐怖がゆえ。ありえない。
怖くて仕方なく、リコは全身を岩のように固くさせる。

こわごわ、くちびるが白状した。

「何ヶ月目、なんですか?」

「わかるでしょう。七ヶ月目、かな、見たところ」

「七ヶ月前、あたし、海で溺れたんです。でもなにかに助けられました。なにかよくわかりません。おっきくて、ながくて、ぬるぬるしたものが手の指みたいな触覚? みたいな、奇妙なものであたしの手首を掴んで、ものすごいスピードで岸まであたしを運んだんです。それであたしは無事だったんですけど。それは七ヶ月前です」

「ああ。知っているよ? 文史高校のボート座礁沈没だね。大変だったね。そうか、そうか、君はあの事件の被害者でもあったのか。死んだ生徒さんも何人かいたね、そうか」

おじいちゃんが、合点して手元の紙になにやら書き込んだ。
「メンタルクリニックに知り合いがいて、ちょうど5駅先のところだから町の連中には知られずに済むでしょうね。紹介状を書きましょう」
「せんせい」
あえかに、あえぎ、リコはおおきくなった腹を抱えて震えた。おじいちゃん医者は困った顔でリコの全身を見つめた。
人目をしのんで、帽子にマスクにリュックサック、すべてが黒くてどこの誰だかもわからない格好。はおったパーカーはぶくぶくのフリーサイズで、妊婦となったリコの体を覆い隠してくれる。

先生はおっしゃった。
「妊娠しているんだよ。それはまちがいないんだよ。処置をせねばならんのだよ。でも君がそんな事件で旦那さんを亡くしたのなら、いろいろな難しい事情があるのでしょう。子どもはどのみち、産まれるんですよ。お薬をあげるけど、こちらのメンタルクリニックの田中先生のところにもいきなさい。もっと違うお薬も必要でしょうから」

リコは、ぶるぶるしながら胃液を吐くのを耐えた。耐えながら、ぶるぶるしながらあの日のことを回想する。

「あたし、岸にあげられて、あれと目があったんです。見たことない色……で、まっくろくて、石ころみたいな、光る石ころ、でもなんか有機的な生命の感じがして、あたし、見たと思うんです。見ちゃいけないものを。あれから調子がわるくなっていって、あれから、七ヶ月目なんです」
「君は七ヶ月目ですよ」
「七ヶ月目にこんなことおかしい」
「七ヶ月目ともなると、大変だったねぇ。大変だ。もしかすると、今日このあと、メンタルクリニックの田中先生のところにも行きますか? 電話をいれておきましょう。君の事を言っておきましょう」

「おッ……」

あごが、がくがくして言葉がまともに出て来ない。リコは、おもちゃの人形の頭がするように、頭を前後にゆらした。
「おねが、い、します、せんせい」
「いいんだよ、いいんだよ。お大事にしてください」
先生はマイペースにおっしゃっる。田中先生に電話した。リコは、呆然としながら、看護婦に渡されたメンタルクリニックの田中さんの病院までの地図を片手に、地表を漂流するように町に放たれた。

おおきくなったお腹になにがいるのか、海でリコを助けたなにかがリコと目をあわせた瞬間に何をしたのか、何をされたのか。

疑問は恐怖といっしょになって耐えずリコを蝕んだ。
なんとなく、予感がする。それは、なぜだか七ヶ月前からずっとリコを襲っている悪夢のリフレインでもあって、悪夢の内容はいつも同じだった。
悪夢はおっしゃる。

『たまごを うむよ リコちゃん たまご』
嗄れた奇っ怪な声音がおっしゃる。

見たこともないのに、魚の産卵シーンの夢を見る。悪夢をみる。ああ、そうかそうですね先生、リコは胸中でいまさらながら、白昼夢のただなかを歩きながら、おじいちゃん医者を肯定した。
「メンタルクリニック……、必要かも」
お薬がいるかも、ようようと認めるが、奥歯ががちがちして鳴った。

もうすぐ、産まれる。
悪夢を産むかもしれないし、想像妊娠の可能性はあるかもしれないし、あるいは医者が間違っているかもしれないし、あるいはリコは本当のところはあの座礁沈没事件で死んだ生徒の1人なのかもしれない、本当は。

ただ、あの、海のよくわからないあの何かが、リコにわるさをしたのだ。
それは、確実だ。




END.

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