陸上をやめたアシは退化していったが、ある日。
晴夏が陸上競技をやめてから、晴夏の足はちぢむばかりだった。気がついたのはある日の入浴中、なんだかアシが細くなったなぁ、と膝を立てて座ったときだった。
陸上をやめたから、筋肉が落ちたんだろうか?
しかし、アシは放っておくと際限なくちぢまるようだった。不自然に両足だけが細くなり、カモシカのような平べったく薄い両足が人間にくっつくようになった。晴夏の食生活は変わらず、変わったことは陸上を辞めたことくらい、それでもアシがどんどんと細くなり。もはや、誰の目にも異状に細くなった。
病院や、整骨院などに訪ねてみるが、足が細すぎるなどといっても埒があかなかった。摂食障害をうたがわれて心療内科を勧められる。晴夏はいつもと変わらぬ食事をしているのに。晴夏のアシは、ピンセットを2本ならべて立たせるほどになった。
骨と皮だけの足でよろよろになる。松葉杖を使うようになるが、アシはまたちぢむ気だ。
なぜ、どうして。
なぜ、なんで。
晴夏や周囲の者たちの悲嘆にも構わず、ついち車椅子の生活となった。晴夏の足は使いものにならなくなった。うすい、うすい、一反木綿のようなアシが腰から下にぶらさがる。
悲しいながらも生きていくしかなく、晴夏があるとき車椅子の車輪をまわして一人で通学しているときのこと。
見目の整った、色素のうすい青年が、おどろいた目をして晴夏と晴夏の足を見つめた。通りすがるだけの通行人だった男は、立ち止まって、なにやら喉を詰まらせた。
異様な空気の変容を察知して、晴夏も車椅子を止めた。男はふざけているような話をとうとつに呟いた。
「俺は前世の記憶があるんだけど、結婚相手をまちがえた。新米の侍女にくちがきけないやつがいた。今、こうして生きてると、あの場所は人魚姫の童話の中だった。見知らぬ人よ、君の足は君が人魚姫だから、前世の人魚姫を否定しつづけないと人魚みたいに足が退化してしまうんじゃないかな」
かんばせが整った男はどうかしている。しかし晴夏もどうかしていて、雷鳴を受け取ったかのように衝撃を感じた。男は、名残惜しそうにしばらく晴夏のまえでもじりもじりとしたが、勝手なため息をひとりで吐き、
「……前世は、前世の話にすぎないか」
などと呻き、車椅子で方向転換にもてまどる晴夏を置いて、もとの通行人に戻って自分の道を歩いていってしまった。
雷に感電してほうける晴夏。残されて、学校の始業時間を迎えても、まだ茫然。
数日ほど考えてみて、車椅子の晴夏は、母に告げた。
「陸上、またやる。リハビリする。走れるようになったら戻れる気がする」
なにを、ばかな、誰もが顔にそう書いたが、リハビリ自体は歓迎された。そうして晴夏が走れるまでにどうにかリハビリを続けて、はじめは補助器具つきの助走からのスタートになった。すると、みるみる、みちがえて晴夏のアシは太くなっていった。
晴夏はやがて車椅子から立ち上がる。あの、奇妙な、顔がいい男とは、あれからもう二度と会えてはいなかった。
袖振り合うも多生の縁。とは、よく言ったものである。肉体においても。
END.
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