生きる時間が違うもの

さて、人魚姫は声を喪いながらも人間の体を手に入れた。人間になってすぐさま、まず、海の底に居たから、彼女は死にものぐるいで泳ぎ浮上して海の外を目指した。

波打ちぎわで力尽き、裸体で身晒しになって腹部を盛んに上下させる。彼女はようようとソレを予感した。そうだ、不老不死と謳われる人魚だったんだわ、私は……。

そして、もう、人間になったのだわ……。

どうだろう。人魚姫で居たころの記憶が、夢から醒めるかのように、記憶から抜け落ちていった。覚醒していると虫かじりされて物覚えはアナボコになる。アナボコの記憶には薄ぼんやりした茫洋としたものしか残らず、人魚姫は浜辺に倒れたまま、やがて、なぜ? なぜ私は倒れているの? と、人魚姫であった頃の出来事会話思い出が消えてしまい、ただただ、疲弊した肉体にあえぐ。

人魚姫には一切合切わからない。もう永遠にわからなくなった。

人魚姫を人間にした魔女はわかっている。そうさ、不老不死の人魚と最長100年そこらで死んじまう人間とじゃ、記憶の在り方がそもぜんぜん違うのさ! 蟻と人間の記憶できる容量がぜんぜん違うのと同じこと、人魚姫は、人魚であることを捨てて蟻みたいな人間になったんだから、脳の構造も魂の在り方もなにもかんも変性してしまうのさ。

魔女は、人魚姫を憐れみながら、嘲った。こんな物語がハッピーエンドになるなんて、ぜったいに無いさね、知っているからだ。

波打ちぎわで呆然自失としている美しい少女は、浜辺に朝のさんぽに来ていた王子様に発見された。人魚姫があんなに焦がれた、人魚姫の運命の人間!

従者たちを呼んで、少女を介抱しながら、王子様はひどくうろたえて、尋ねた。少女をひとめ見て、どうしても、どうしても彼は気になったのだった。

「きみ、会ったことがある? 海で……、きみのような、黄金色の髪と、蒼い瞳がうつくしい娘に、僕は助けてもらったんだ」

人魚姫だった少女は、首をかしげた。本気でわからなかった。永いあいだ、夢を見ていた気がした。海の泡がぶくぶく聞こえて、泡の向こう側に今までのすべては置き忘れてきたかのようだった。

純粋無垢なまなざしに晒されて、王子様は自らを恥じた。そうだ、こんな偶然は、あるわけがないな。

「すまない。今のは忘れてくれ」

「?」

「さぁ、名前も忘れてしまったうつくしいひと、ひとまず城でスープでも飲んで体を温めておくれ」

従者のマントで裸体を包んだ少女は、導かれるままに歩く。

その先は、バッドエンドだ。


END.

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