人魚と勇者と旅

あ。負ける。海中にて培った第六感が、元人魚のアリアスの額に閃いた。難破船もろとも沈もうとした勇者を助けて、彼の助けになりたい一心で陸まであがって旅のパーティーメンバーに加わったアリアスである。

アリアスに特別な腕力はなく、魔力もなく、せいぜい歌声が美しく、野鳥やリスなどを引き寄せられるという絵本のお姫さまのような魅力だけが取り柄だった。なので、アリアスは、下働きのメイドのようにして、勇者の身の回りの世話などを担当することにした。
具体的には、料理や洗濯や掃除や備品の手入れなど。裏方だ。それでもアリアスは幸せだった。
勇者は優しく、辛かったらいつでも海に帰っていい。無理しなくていい。兄か父かのように、アリアスに語って聞かせたものである。
「オレ達が死にそうだったら、君は走って逃げてね」
と、そうも言われてきた。

しかし今、膝をついた勇者の前に、アリアスが飛び出した。
珊瑚色の目を限界までぱっちりと開き、目の前に立ちふさがる超巨大型オークを見据える。アリアス!? 背後から、悲鳴のように名を呼ばれる。アリアスは世話役であるから、アーマーやくさびかたびらなどは装備せず、単に長旅用のブーツにロングスカートに、合成皮革のコートにヤンヤンの毛皮のケープを首元に巻いている程度の格好だ。アリアスは、腰に携帯しているナイフを抜き取った。

身の丈が五倍ほども違う超巨大オークが、掌ひとつでアリアスを握り潰そうと手を伸ばす。
「アリアス!! 海に帰れ!!」
「勇者さま」
陸のどまんなかで血迷ったことを叫ぶ勇者に、アリアスは、笑った。

「――わたくし、ここまでのようですわ。もう勇者さまの旅の仲間ではいられなくなる……でしょう。奥の手を使います」
「アリアス!?」

すばやく、アリアスは後頭部にナイフをかざした。

陸に揚がる前、人魚であったころは身の丈以上にながさがある、たっぷりしたふさふさの長髪だった。今はこれは編んでまとめてシニヨンにして後頭部にぐるりんと巻きつけしてあった。髪の留め具は故郷の貝殻だ。アリアスは躊躇わず、ザックリとシニヨンにナイフをいれた。
バラバラとシニヨンが崩れて髪の毛が落ちる。ぶわっ、と切られなかった髪が肩にかかって落ちてきた。アリアスの手には、採取した自らの髪の毛がふとい縄のようにひとまとめに握られる。

「人魚の髪には、特別な魔力が宿っているのです――!!」
魔力の貯蔵庫であるのだ。海中でただよった数百年分のながさが、そのまま不思議なちからに直結している。オークの四本の指が、掌が、アリアスの目と鼻の先まで迫っているが、アリアスが突き出したふわふわの編み込み巻き毛が発光して超常的な現象を呼び起こした。光の球の圧縮がはしり、オークの全身に埋め込まれて超巨大な体躯を吹っ飛ばした。
続けて、アリアスは、勇者とその仲間たちの服を片手にまとめてひっつかみ、一言告げた。
「転送いたします。海がまいります。皆さま、ご覚悟を!」

膨大な魔力が飴色の光を放ち、せっかく苦労して手に入れた人魚の両足は魚のそれと同じく元に戻る。そして、一瞬にして、故郷の海の只中だ。勇者たちが、肉体とくちからあぶくを噴きながら、しどろもどろに海でじたばたした。人魚に戻らざるをえなかったアリアスは全員を肩にかつぎ、尾ひれをもちいてすばやく海面を目指して浮上した。

海を出て、そのまま陸地まで数時間をかけて泳ぎ切ると、アリアスは疲労困憊でぼろぼろになっていた。砂浜に倒れ込んで、ようやく地に足ついたと安堵する勇者の仲間たちとは真逆に、涙を珊瑚色の両目に流した。
勇者が、アリアスの名を呼び、顔を隠そうとする彼女をおもんばかりながらも顔を俯けて話しかけた。
「ありがとう、アリアス。こんなことができたのか」
「ごめんなさい。もうこれまでですわ。わたくし、この海からでられなくなりました。もう、これまでですわ……」
悲嘆に涙するアリアスの、ぶつぎれになった髪から、勇者は貝殻細工を取り外して自らの胸に差し込んだ。
「アリアス。君のこころは、俺が連れて行くよ。決してひとりじゃない。必ず、迎えにくる。必ず戻ってくる」
泣きながら、アリアスは、自分の後頭部をまさぐってまだ残っているシニヨンと三つ編みがないかを探した。
一束、二束、とあるので、それを切るように頼んだ。

「お守りです。勇者さま……。魔力タンクとしてお使いください」
「アリアス……」

勇者が人魚のほっぺたにキスを残した。

こうして、浜辺に人魚は残されて人魚は勇者のパーティーメンバーから正式に脱落することとなった。ああ、所詮は人魚なのね、と我が身を憐れみながら、アリアスは最後まで手をふって仲間達と勇者を惜しんで見送った。

それから五十年もして勇者の旅は終わって勇者もすっかりと年老いた。勇者の伝説には、アリアスには事情がわからないが、『人魚の仲間』という女が最後まで旅を共にしたことになった。アリアスは、現役を引退して海の見えるちいさな一軒家に住むことにした老いた勇者の訪問を今日も受けながら、あの日と変わらぬ不老不死の美少女の姿で、勇者に尋ねた。

「わたくし、どうして除名されてないのかしら?」
「君の貝殻をずっと身につけていたから」

老人は、はぐらかすように目元の皺を深く刻んだ。海は朝日に照らされて白く波打ち、砂浜には無限に波が押し寄せていた。
ようやく腰まで伸びた髪をふわふわさせながら、アリアスと老人は、並んで朝日を眺めている。
老人の胸元のベスト生地には、今日も、貝殻が差してあった。




END.

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