掌のうえの憐れな教授

「いつから気づいてたんだい?」

教授は感情をおし殺して尋ねた。

本当は、引き裂いてやりたかった。人生何十年も無駄にしてくれたこの魔性の雌女に鉄槌をくだし、はらわたをさばき、ぐちゃぐちゃのめちゃめちゃに煮込んでやりたい。封じたはずの、感情の坩堝が、肩や膝を上下に振動させてそれでいて凍りついて冷たい。

だが、殺してやりてぇ、苦しめてやりてぇ、今まで敬語と敬意でもって接してきたものに本意である殺害心を向けるのは、ムダだ。彼女は決して死なぬ、不死の人魚だから。

人魚は、教授のもとでこの30年ほど安寧に怠惰な日々を過ごしていた。バスタブ容量のタライに身を寝かせて、それこそお姫様のように髪やカギヅメやマッサージなどなど教授に奉仕をさせてきた。人魚は、そのタライにいるうちは、人魚姫様だった。

だからこそだろうか、教授は先に案じた。この暮らしを楽しむために自分の切々たる不老不死への憧れを、踏みつけしてきたのか。

雪が降るので家のリビングにタライは移動させた。ともに暖炉の火に当たる。暖色の橙色に照らされながら、教授は今日も人魚姫の髪を最高級の馬毛のクシですき、タライにぬるくなった湯を混ぜて彼女を楽しませた。深夜が近づき、教授は、本を読みながらロッキングチェアでうとうとし始めた。

人魚姫は、タライから両手と尾を飛び出させながら、うふうふと抑揚もつけずに単調に笑って教授の姿そのものを楽しんでいた。教授は、今日も、奉仕と保護の引き換えとして、不老不死たる彼女から魚の尾をひとかじりぶん、奪った。スープに混ぜてそれを食べた。この30年間以上、彼女と出逢ってから必ず食べているものである。

民間伝承は語る。人魚を食べたものは不老不死になれる、と。

しかし、当の彼女はたった今、雪と暖色に包まれた穏やかな暗闇にふと感興をそそられたようにして、教授の夢を打ち砕いた。

『不老不死になんてなれんわよ』

『人間がかぁってにユメを見てるだけなの。ニンギョを食べれば自分も不老不死になれると勝手に言っているだけ』

『いくら食べてもね、アンタはもうすぐ死ぬんだよ』

決まってる、と雌女の怪物はしとしとした静かな夜に笑い声をあげた。

「初めっから知ってるよ!」

アンタ、あたしが何百年、いや何千年も生きたと思っているの? 言葉にしていない声までが教授に届き、教授は頭を抱えた。

煮え湯。煮え湯が喉に飲まされた。苦悶する教授をよそに、人魚姫はあっけらかんとして、タライからしなだれた両手と魚の尾をこぼしながら、楽しそうに告げた。

雪がふっている。一軒家の外でしんしんと音もなく降り積もる。雪がしずかに。

「残念でしたぁー。そろそろ寿命と限界でしょ、だからアンタは死ぬからさ、その前に教えておいてやろうと思ってね。恩返しってわけ。にひひひひひひひひひ」

人魚姫は、魚の尾や肉体を欠損しようとも再生する。不老不死と再生こそが人魚がニンギョである肝要要の怪異である。

教授の苦悶は果てしなく、老体に発作を起こすほどに激しくて教授は狼狽しながら立ち上がった。最後のちからを振り絞って人魚姫の自慢のたっぷりした栗毛の髪をわしづかみ、ギャアギャアと騒ぐのを無視して玄関まで身体を引きずって、外の雪まみれの銀世界に化け物をほうりだして、捨てた。

教授の人生が終わる、前日の出来事である。


END.

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