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強くて悲しい火だるま槐多。

美術界で、ある研究の第一人者の方に「村山槐多」を勧められ
彼の人生と作品が解説されている本を読みました。

その方と直接お話したわけではないのですが、仕事を通じて関わる機会がありまして。
「西洋と東洋、両方の美術の素晴らしさを学んだ方が良い」と、お話されていました。そこで、まずはその方がお勧めしていた村山槐多から攻めてみようと。

村山槐多(1896-1919)
明治・大正時代の日本の洋画家、詩人、作家。
愛知県額田郡岡崎町(現在の岡崎市)生まれ、京都市上京区育ち。

槐多はみなぎる生命力を退廃的・破滅的雰囲気を纏わせながら絵画に表したことで知られています。
またガランスという深い茜色、やや沈んだ赤色を好み、自身の作品に使用していました。

合掌しながら地べたに置いてある托鉢の器に立ち小便をする全裸の僧を描いた「尿(いばり)する裸僧」は恐怖に近い迫力と情熱、荒々しさが溢れます。

「尿する裸僧」(1915年)

槐多は自画像も数多く描き残しています。槐多の描く人物画は繊細で細やかで、高い画力によって描かれていることが分かります。
1914年に描かれた「紙風船をかぶれる自画像」はお茶目で可愛いですね笑。

「紙風船をかぶれる自画像」(1914年)

私が印象に残ったのは
縦1.8m、横2.4mにもなる壮大な水彩画の大作「日曜の遊び」です。
この作品は1915年に描かれました。

「日曜の遊び」(1915年)

1982年の発見時は槐多の作品と言われていましたが
その2年後、山本鼎の作品だとされ
再度その20年後に槐多のものであると証明された作品です。

山本鼎は画家で、槐多の従兄にあたります。
この作品で槐多は大作に挑戦しましたが、のちに自身の基礎力の不足を認識して制作を放棄してしまったんだとか。

こうして見るとタッチも構図も実に多彩。
絵に生涯を捧げていたことが伝わってきます。

絵だけじゃなくて、文才も。
槐多は22年の短い生涯で多くの詩も残しています。まさに天才。

絵のモデルを務めていたお玉さんに恋をしたときは
彼女を慕うあまり、モデルとして雇いたいとの懇願の手紙を執拗に書いたり、彼女の住居近くに越したり。
それはそれはストーカーのような愛情表現だったようで。
結局、お玉さんには見向きもされず玉砕。槐多は傷心旅行へ。
失恋後の行動は現代とあまり変わらないですね笑。

肺の病気を患い、当時流行していたスペイン風邪により22歳5か月の短い生涯を終えた槐多。
詩人の高村光太郎は情熱に溢れ、憑りつかれたように絵を描き続けた槐多を
「強くて悲しい火だるま槐多」と表現し、彼の人柄や作品を高く評価しました。

この本を読み終えたのは今週の月曜日。
偶然にも2月20日は槐多の命日。
不思議なご縁を感じました。
これまで
西洋にばかり目を向けてきたけど、東洋の芸術も素晴らしいですね。

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