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【小説】 Fall in

   


Prologue
 

 ……次のニュースです。明日、十一月八日は大コーリン祭です。
 大コーリン祭はもともと、日本を始め、アジア諸国、さらにヨーロッパやアメリカの一部にまで広まっているROU(Religious Organizations Utopia)―通称ロウ―の設立記念日であると同時に、ROUの一番大きな行事の日でした。しかし、今ではハロウィーンやクリスマスなどと同じように全員が楽しめる、一大イベントとなりました。
 ここで、ROU代表・那須野さんからのメッセージです。

「ニュースをご覧の皆さんこんにちは。ROU代表の那須野と申します。明日は私たちのROUが設立されてから三十年目の、記念すべき大コーリンの日です。心からのコーリンをした後、心から楽しみましょう。皆さんのコーリンで世界は必ず変わります。ここでコーリンのことを簡単にお話しましょう。コーリンとは、皆さん一人一人の理想の世界――私たちが言うユートピア――を呼び寄せるお祈りです。ユートピアを心の中に置き、ただその世界に行きたいと願うのです。これがコーリンです。コーリンをしていれば、いつかあなたのユートピアに行くことができるでしょう。そしてそれはまもなくです。では、明日の大コーリン祭をお楽しみください。」

 那須野さん、ありがとうございました。十一月七日、夜のニュースをお伝えしました…… 

 島田 想がはっと目を覚ますと、クラスの人がみんな机にうつ伏せで眠っていた。さらに言うと、生徒だけでなく先生まで、一人残らず眠っているようだ。何人かは机からずり落ちて、床に落っこちてしまっている。
 え?何が起こっているの?さっきまで……確か、ホームルーム中だったはずなのに。
「……武村君?」
 寝てる、のか。
「……あの、みんな!」 
 誰も、何にも反応してくれない。呼んでも起きないなんて……。でも、どうして僕だけ眠っていないんだろう?何でみんな眠ってしまっているんだろう?他のクラスの人は?僕はどうしたらいいの?
 島田は、頭に『はてな』をたくさん浮かべながらぐるぐると教室を歩き回り、そして何を思ったか、教室から出て行った。そのまま隣の教室に向かい、ドアの隙間から教室内をのぞく。
「えっ?誰も……いない?」
 あわててドアから目を離し、隣の教室へと急ぎ走るが、どの教室を見ても人の気配はない。
 島田は、行く当てもないままトイレの個室に入っていった。

 島田 想は何の変哲もない、中学一年生の男子だった。
 変わっていることと言えば、ROU直轄の学校に通っていることと、クラス内で孤立していることだ。とは言っても、事務連絡なら委員長の武村と話すことができたし、特別何かができるわけではないが、すべてにおいて中の下ぐらいのことはできていた。
 島田のいる一年三組には、いわゆる『カースト』というものがいつの間にかできていて、そこに三つの階級がぼんやりと存在していた。
 三軍。島田はここに所属する。ここにいる人たちは、クラスの二割弱で発言力もない。勉強ができるわけでもなければ、スポーツもできない。ましてや顔もよくない。彼らが痛みを分かち合ってひとつにまとまるかと思うと、そうではない。ここにグループは存在しない。個々が一人で過ごすのだ。強いて言うならば、たまに二・三人で集まって話している、岡田 陸らのオタクたちがそれに当たるかもしれない。
 二軍。ここはいろいろなタイプの人間が混在している。クラスの六・七割がここに所属していて、グループもいくつか存在する。
 クラスのお調子者、山崎 毅。彼は成績・素行共に悪いが、ムードメーカーのような役割をしている。三軍以外の誰とでも話し、いつも誰かとふざけている。
 学年一の秀才、山本 真美。彼女は、二軍では珍しくグループに入っておらず、誰とも話さないが、クラスで一目置かれている。
 一軍。クラスの目立つ人のほとんどがここにいる。
 武村 剛。彼はこのクラスの委員長である。明るい人柄、成績優秀、スポーツ万能、そして整った顔立ち。一軍はもちろん、三軍の人まで、誰にでも平等に接している。絵に描いたような人物だが、こういうたぐいの人間も確かに存在する。
 松本 彩。彼女は、この学年の女子のトップに君臨している。成績はそこそこだが、教師からの受けもよい。授業中にも多く発言し、山崎と絡むことも多い。容姿端麗でカリスマ性も備えているので、トップにいるのは、当然といえば当然である。
 このようなクラスを、島田は不満に思っていた。何かいいたいことがあっても、発言することができない。強制されているわけではないのだが、そういう空気になっているのである。今朝の出来事もそうだった。

「宿題写させてくれよー、委員長」
 山崎のバカが武村君の机の前で手を合わせてお願いしている。
「一回考えて、わからなかったの?」
「そうそう!難しくてさ!」
 優しい武村君は、しぶしぶといった感じでノートを渡している。
「今回は授業が始まるから仕方ないけど、次わからなかったら僕に聞きに来てね」
「ありがとー!さんきゅーな!」
 
 あーあ、あいつが一度でもまじめに考えてるわけないじゃん!って、武村君に言えたらなぁ……。
 
 島田はそう思いながら席に座って、猛スピードで宿題を写す山崎を見て、しばらく目を瞑った。朝なのに、強烈な眠気が島田を襲う。しかし、教室は騒がしい。島田はしかたなく目を開いた。

「ホームルームはじめるぞー」
 先生だ。相変わらず遅いなぁ。チャイムから二分も遅れてる……。
「今日は連絡事項が多いから、ちゃんと聞いておけよー」
 だったら、もっと早く来ればいいのに。
「まずは、今日は何の日だと思う?山崎、言ってみろ」
「えっと、大コーリン?」
 先生には敬語だよ……。
 「そうだ。今日はわれわれの学校を設立したROUの大きな行事の日だ。日ごろからコーリンについて学んでいるお前たちなら、やり方もわかるよな」
「だいじょーぶですよ!」
「いい返事だ、山崎。ただ、ROUの方々が直々に説明しに来てくださるとのことなので、ちゃんと話を聞くんだぞ」
 何時間目なんだろう?
「もうひとつ、連絡事項がある」
「先生、待ってください。その説明はいつ、というより何時間目に行われるんですか?」
 さすが山本さん!僕にも発言する勇気があればなぁ……。
「ああ、忘れてた。ナイス指摘だ。このホームルームが終わった後、つまり一時間目からだ。では次の話だが……」

 島田の記憶はここで終わっていた。

 そうだ、僕ここで居眠りしちゃったんだ……。ちゃんと聞いておけばよかった。何か大事なことを聞きそびれたのかもしれない。だから僕だけこんなことになっているのかな。というか、誰も起こしてくれなかったのか。ま、しょうがない、よね。
 どうしようか、これから。
 島田は考えることも、することもなくなったので、みんなが眠る教室に戻ることにした。
 トイレの個室のドアを開け、廊下を教室に向かって歩く。先ほど走っていたのとは打って変わって、足取りが重く姿勢も前かがみだ。数倍の時間をかけて教室にたどり着き、ペンキのはげた扉を開ける。すると島田は、さっきまでは気がつかなかった何かに気がついたようだ。

 あれ?床に何か落ちてる。茶色い台形のおもちゃ消しゴムみたいだ。あ、こうやってると小さな鉢みたいに見える。結構落ちてるなぁ、何でさっき気がつかなかったんだろう……。
 あれ?

 島田が下に向けていた目をふっと上げると、そこには誰もいなかった。机に伏せていた人、床に落ちた人、教壇で寝ていた先生も、いなくなっていた。
「あ……れ?」
 
 言いようのない恐怖が島田を襲い、ふらふらと自分の席に座る。がっくりとうなだれ、机に伏せると、島田は机の上にも茶色いおもちゃ消しゴムがあるのに気がつく。よく見ると、その中には『花』のようなものも咲いている。つまみ上げ、観察するうちに花と島田との距離が短くなる。すると島田の鼻腔に、甘ったるい、それでいて不快にではない不思議な香りが進入してきた。
 瞬間、目の前が真っ白になった。
 島田は不思議な浮遊感とともに、しだいに意識をなくしていった。

「……まだ、しまだ、島田!」
誰かが僕を呼んでいる……。

 眩しい、目の前が真っ白だ。それにしても、ここは……?
 あ、学校の校庭だ!さっきまで教室にいたのに、どうしたんだろう……。今日は何かがおかしい。……大コーリンの日なのに、どうしてこんなにおかしなことが続くのか?

「島田 想、上だ!」
 えっ?
 
 島田は急に声をかけられて困っている。どうやら、教室のベランダ部分から山崎が声をかけたようだ。
「島田くーん、早く教室にきて!」
 委員長の武村もそれに続いて話しかける。島田は戸惑いながらも教室へと急ぐ。教室までの階段を一歩ずつ上る。やけに校舎がきれいだ。新品、というよりも、掃除が行き届いたきれいさだ。教室の扉をおずおずと開ける。この扉もペンキのムラがなくなっている。開かれた扉からクラスの視線が島田に集中する。
「す、すみません。遅れました」
 そう言って静かに席に着く。
「しーまーだー。どうしたんだよ、遅刻なんて珍しいじゃん」
「えっ、あの、ちょっと寝坊しちゃって……」

 本当は寝坊なんてしてないけど。教室も元に戻ったみたいだ。それにしたって……、山崎?いきなりどうしたの?僕に話しかけるなんて、珍しいね。なんてことは言えない……。
「山崎君、誰だって寝坊しちゃうときくらいあるよ。しょうがないよ。ね?島田君?」
 武村君まで話しかけてくれる。どうしちゃったんだ?
「ありがとう、武村君。でも寝坊はよくないよね、ごめん」
「謝る相手は僕じゃなくて先生だよ」
「そ、それもそうだね」
「じゃあ、僕は向こうに行くね!」
 武村君が離れていくと、山崎も離れていった。少しさみしい気もする。でも、これがいつもどおりだ。そう、一人でいるのが僕じゃないか。
 そういえば、さっきのみんなが眠ってたり、いなくなっちゃうのはなんだったんだ……?夢だったのか?
「山本っち、ここはどうすればいいの?」
「xに代入して簡単に整理すれば、松本さんならできると思う」
 あ、山本さんが松本さんに勉強教えてる。これも珍しいなー。
「ちょ、ちょっといい?山本さん、ここ、お、教えてくれませんか?」
 え?岡田君?オタクの?普段は絶対話さない、秀才の山本さんに聞くの?もうここまでくると、珍しいとかじゃなくておかしいよ……。
 みんなどうしちゃったんだよ、今まで必要な時にしか僕と話さなかったし。男女で、しかも松本さんと山本さんのいるところに岡田君が、勉強のためとはいえ混ざるだなんて!しかも、誰一人として――僕を除いて、誰も変に思ってないみたいだし。本当に、どうしたんだ?
―でも、でもこういうクラスって、いいよね……。
「島田ー、こっち来ーい」
 先生?何だろう?
「昨日の小テスト返すから。お前、今回頑張ったな!七十点だけど前回から二十点上がってるからな、よく頑張ったよ」
 え?この先生、今までのテスト返却のときは何も言ってくれなかったけど、ちゃんと見ててくれてたんだ!
「あ、ありがとうございます!僕、前回の点数がショックで頑張ったんです!でも、ここの大問の部分が理解できなくて……」
「ん?なんだ?」
 あ、えっと、今度、
「今度教えていただけますか?」
 言っちゃった……!
「おう、いつでも来いよ!熱心な生徒は大好きだ!」
「せんせー、ボクもここわからないんですけどー」
 山崎!邪魔しないで!
「おう、ちょっと来い」
 山崎が僕の隣に座った。持っているノートには付箋が張ってある。
「ここの付箋のところなんですけど、どうやればこの答えになりますか?」
 あれ?山崎―君って
「ここはなぁ……」
 山崎君ってまじめなんだ!今までふざけてばっかりだと思ってたけど、案外いいやつなのかも!
「よし!皆、席に着けー!今回の小テストで分からないところがある人は、放課後俺のところに来い。もうできるっていう人も、教え役として来てくれると助かる。ではホームルームを終了する。」
「起立、姿勢を正して、礼!」
 ちゃんとしてるなぁ。前まで、みんなで揃って礼なんてできないクラスだったのに……。制服も、みんな着崩さずにきれいに着てる!何があったんだ、このクラスは!
「島田、点数上がったんだってな!おめでとう!」
 あ、山崎君!そういえば、後ろの席だったんだね。よし、せっかくだから……。「ありがとう!…山崎君さ、放課後、先生のところに一緒に行かない?」
 また言えた!
「いいよー!」
 よしっ!
「ありがとう!実はクラスの人と勉強するの、初めてなんだよね……」
「え、そうなの?」
 あ、ここまで言わなくてもよかったかも。引かれちゃったかなぁ……。
「いい性格してるのに。もったいないな」
 え?いい性格?僕の性格のこと?今まで山崎君のこと、見下してきたのに……?「そんなことないよ。あ、それじゃあ放課後また!」
 ああ、僕逃げちゃった……。放課後になったら、ちゃんと話せるかな?

 自分の席に戻った島田は、先ほど渡されたテストを見返そうと広げる。そこには、先生からのコメントが付箋に書いて貼ってあった。

『今回の小テスト、よく頑張った。
 次回も期待してるぞ!
 わからないところがあったら、いつでも聞きに来なさい。』

 わぁ!先生、いつもと違う!さっきもそうだったけど、こんなこと書いてくれる先生じゃなかった!……本当にどうしたんだろう?
 何かが違う?皆こんなに『いい子』だったっけ?武村君は元々だけど、山崎君はまるで違う。岡田君や松本さん、山本さんだって一緒に勉強するタイプじゃないし……。
 でも、こういうクラスっていいな……。前はグループではっきり別れちゃってたけど、今は皆仲がいいし!先生も僕のことほめてくれるし!すごくいいクラスになった!皆どうしたんだろう?いなくなったと思ったらいきなり現れて、僕にドッキリでも仕掛けてたのかなぁ?
 ……考えすぎか。そもそも、僕なんかがクラスを評価しちゃだめなんだ。
 そうだよ!僕はなんて馬鹿なんだ!自分の立場もわかっていないくせに、山崎君のこと見下したりして、そんなことしていいと思ってるの?って、こうやって考えてるのも自分なんだけど。でも、やっていいこととだめなことぐらいわかるだろう。どうしてそんなこともできなくなったんだ。ここに来てから。ここ。
 そう、ここのみんなは正しいんだ。
 仲のいいクラス。面倒見のいい先生。正しい制服、敬語。気づかいのできるクラスメイト。勉強のできるクラスメイト。みんなのムードメーカー。
 調和の取れたクラス。

 ズキンッ

 痛っ。頭痛だ。ズキズキする……。
 ……調和の取れたクラス、僕が今まで知っているのと違う。前は……居心地が悪かった。どっちのほうがいい?それは断然こっち、調和の取れたクラス。
 でも、僕はここにいていいの?人を見下して、クラスの和を乱して、『この人たちは普段一緒にいないからおかしい』とか思っている、やっていいことと悪いことの区別もつかない僕が?

 ズキンッ

 痛い、痛いよ……。

 島田は頭を抱えてうずくまる。

 僕はここにいないほうがいい?今までのところが僕にはお似合いなの?ここと違って、調和の取れていない、あんなクラスがいいのかな?戻りたくない。ここのみんなと話したい。でも、今までは話さないほうが普通だった。だとすると、ここがおかしいのかな?
 そう、きっとそうだ。そう思いたい……。僕だけが正しくないなんて、そんなの……。そんなの、おかしいに決まってる!今まではみんなのほうがおかしかった。僕は今まで正しかったはずなんだ。無視されても、相手にされなくても、僕は耐えてきた。今まで僕が悪だと思っていた人たちが、いきなり『いい子』になるなんてありえない!
 ああ、でもこんなことを思っている時点で、僕は、

 ズキンッ

 僕はだめなんだ。

 ズキン

 痛い。どんどん痛くなってる……もう考えられない……考えたくない。

 ズキン

「島田、どうした!うずくまって、頭痛いのか?」
 え?先生?
 顔を上げると、隣の武村君も心配していてくれた。
「島田君、大丈夫?」

 ズキンッ

 武村君の顔が、顔が……黒い。
 
ひゃあ!」

 ズキン、ズキン、ズキン―

 頭痛とともに周りの人、先生、教室、すべてが黒くなっていく。中心から黒が広がって、流れていく。
「大丈夫か?島田、保健室行くか?」
 先生の黒い顔が島田を覗き込む。顔の中心から流れ出た黒が島田の太ももに落ちる。

 ズキンッ!

 あ、

 島田の体が、机といすだった真っ黒いものからずり落ちる。そしてその体は床だった真っ黒いものの中に埋まっていく。教室だった真っ黒い空間には、先生も生徒も誰もいなくなった。真っ黒の中に溶けた。
 だれもいない真っ黒の中で、島田を心配する声だけがずっと響いていた

「っ、はっ、はぁ……。来ないで!来ないで!あ、あれ?ここは……?」
 島田はいつの間にか元の、誰もいない教室にいた。
 頭痛は多少残っているようだが、それ以外はまるで、先ほどまでの様子が夢か幻だったかのように静まりかえっている。

 なんだったんだ?ここは今までの教室じゃないか。僕はどうしちゃったんだ?夢、夢だったのか?だとしたら、とんでもない悪夢だったけど……。あ、指に何かついている。これは……花かな?

 島田がブンブンと手を振ると、花が床に落ちた。花は茶色いおもちゃ消しゴムが散らばっている床に落ち、どこに行ったかわからなくなってしまった。

 どうしてへんな夢を見たんだろう?夢じゃないかもしれないけど……。
 さっき夢を見る前に、僕は何を……そうだ、花を見ていたんだ。小さな花。そうか、この茶色いおもちゃ消しゴムは小さな花の鉢だったのか。でも花を見るだけで夢を見るなんて、そんな変な話は聞いたことないし。花は関係ない?よね。
 そういえば僕は朝から眠かったんだっけ……。そう、そのせいでホームルームの話も聞き逃しちゃうし。うん、きっと普通に眠っちゃっただけなんだ。それで今も夢を見ているんだ。教室からいきなりみんながいなくなるわけないし、突然みんながいい子ちゃんになるわけもない。最後の真っ黒に飲み込まれるのは最悪だけど、どっちも僕の夢だったんだ!
 夢、かぁ。夢の中で夢だって気がついちゃう夢に名前があった気がする。めいせきむ?だったかな?漢字は忘れちゃった。たしか『めいせきむ』は夢の中で好きなことができるって、ネットに書いてあった気がする。でも周りに人もいないし、特にすることないなぁ。こんな僕だから、人がいても何もできないけど。
 ……とりあえず家に帰るか。夢だけど。教室も見慣れちゃったし、ここにいても何かが起こるわけでもないよね。

 島田は荷物も何も持たずに教室から出た。残された教室には、花の鉢がたくさん転がったままだ。廊下を進み、ほこりがたまった学校の階段をゆっくりと下りる。校舎の中は相変わらず静まり返っている。島田の足音だけが響いている。島田はさらに、校門の方まで校庭の真ん中を歩いて行く。後ろを振り返り、島田は校舎を振り返って見る。やはり、真っ黒に飲み込まれる前の学校よりも薄汚れているようだ。
 校門に着き、そこから出ようとしたとき、島田の耳に何者かの声が聞こえてきた。男だろうか、低い声が二・三人分聞こえる。とっさに校門の影に身を隠し様子を伺っていると、一台の、黒く、大きな車の影から声がするのがわかった。もう少し近づこうと、車のほうに歩み寄ると、背中に見覚えのある水色の紋章をつけた男が話しているのが見えた。

 人がいる!何をやってるんだ?僕の夢には、とうとう知らない人まで出てきちゃったよ……。何のためにこの人たちは校門のところにいるんだろう?今見えるのは一人だけだけど、まだこの車の後ろにいるよね?何人かな?近づいてみよう。――男の人が二人で話してたんだ。顔も見える。大きい人だなぁ。あっ、驚いてる。どうしたんだ?立ち上がった。こっちに来る。
 「そこの君、どうしたんだ?もう残っていないと思っていたが……」
 ……えっ?あ、僕?
「は、はい。何ですか?」
 わぁ……どうしよう。気づかれちゃった。気づかれて何が悪いとかじゃないけど……なんかよくない流れだよね。
「どうしたんだ君は。まだ『コーリンフラワー』を使っていないのかい?」
 こーりんふらわー?ああ、あの小さい花のことかな?
「小さな花ですよね?あれを見てたら眠くなっちゃって……、その後起きたときに、どこかに捨てちゃいました……。なにかに使うんですか?」
 起きたって言っても、ここも夢の中のはずなんだけどね。
「君、寝てから目が覚めたのかい?」

 男は、ひどく驚いた顔で島田を覗き込む。
「いやだなぁ。寝たら目が覚めるなんてあたりまえじゃないですか」
 男は何も言わず、ただ島田を見続けている。
「……そんなことより、聞いてください!僕、ホームルームの時間から眠ってしまっていたんですけど、ふと目が覚めたら……、クラスのみんなが眠ってしまっていたんです。……」
 島田は今までにあったことを一気に男に話す。内心夢の中だからどうにもならないと思いつつ、やはり誰かに一連の出来事を話せることだけで、島田はうれしかったのだ。
「君の言いたいことはよくわかった」
 島田が調子に乗ってクラスの状況なども話し始めると、男は一瞬のすきに言葉を割り込ませた。
「君、先生の話をちゃんと聞かなかっただろう。ホームルーム中に寝ていたとも言っていたしな。そんなことだからクラスで浮いてしまうんだ。いじめの被害者にも責任がある、とはよく言ったものだな。まあ、そんなことはどうでもいいんだ。私が説明してやろう。ちょっとそこで待っていなさい」
 男はそう言うと大きな黒い車の中に入っていった。車から出てきたときに男が手にしていたのは、見覚えのある小さな花だった。
「これは、見覚えがあるな?」
「はい。あ、でもさっき教室で見たのとは少し形が違うかもしれない……」
「そうだ。まあ、この花の話は後回しだ。まずは私のことを話しておかないといけないな」
 男はそう言うと、後ろを向いて背中を指差した。
「この背中の紋章は見たことがあるだろう?君たちの学校はROU直轄だったはずだからな。そう、私はROUの者なんだ」

 ああ、先生が言っていた、話をしに来てくれる人のことかな?
「私たちROUは、今日、この大コーリンの日に、人々を『ユートピア』へ案内しようと思っている。」
 ユートピア?
「君は、私たちROUの目的を知っているか?信者一人一人をユートピアへ行けるように手助けをすることだ。ユートピアは、みんなの理想がかなう場所なんだ。そこに行くためには自分の心の中に、常に理想を持っていなければならない。漠然としたものではだめだ。しっかりと言葉にできるくらいのものを常に持っておくことが、ユートピアへ行けるコツなんだ」
 いつもの校長先生のお話と同じだ。
「あの、どうして心の中で理想を持っていなければならないんですか?」
「それは……」
 えっ?何か聞いちゃいけないことでも聞いちゃったのかな?
「すみません、変なこと聞いちゃって。もとはといえば、僕が話を聞かなかったのがいけないんですよね」
「あー、いや。そういうわけではないんだ。これは公にはしていないことなんだが……。『花』を使って、ここに戻ってきてしまった君になら、言っても構わないだろう」
 戻ってきた?ここは夢のはずなのに……?
「これは、『コーリンフラワー』というものだ。私たちROUの行事の『コーリン』から名前をとったんだ。これは、一般の人には本物の花として配布したんだ。――君は寝ていて気が付かなかったようだが」
「一般の人には、って。じゃあ、これは本物の花ではないのですか?」
「その通り。これは機械なんだ。人に夢を見させるための、導入効果がある」
 夢?夢の中で夢を見ていたのか、僕は。それとも、ここは現実世界?
「どうして人に夢を見せるための機械を渡したんですか?」
「それがさっきの君の質問につながる。この機械には夢を見させる以外に、もう一つ機能がついているんだ。使用者の望む夢を見せるんだ」
「それって……、常に心の中にある理想が夢になるっていうことですか?」
「そうだ。私たちROUは、その夢をユートピアと呼んでいる。昨晩のニュースで那須野さんが言っていただろう、『いつかあなたのユートピアに行くことができるでしょう。そしてそれはまもなくです』と」
「夢を見ている僕たちの体はどうなるんですか?」
「そう、この問題を解決するのが今の私の仕事だ。この『コーリンフラワー』では長期間夢を見せることができない。せっかくユートピアで楽しんでいたのに、いきなり現実に戻されたらたまったものじゃないだろう?」
 ここが現実世界だって?ありえない。教室から人がいきなり居なくなる訳が無いじゃないか。
「『コーリンフラワー』という仮の機械からABCマシンを経てASへと、君たちの意識はつながれていく。さっき君が言っていた、クラスから人がいなくなるっていうのは、私たちがABCマシンへと運んで行ったからだろう」
 ABCマシン?AS?なんだそれは?それに、ここが本当に現実世界だっていうのか?
「運ばれた先では夢を見せる機械ASと、……体に栄養を送る機械につながれるんだ」
「そんな……!そんなの、僕たちはただ夢を見せられているだけじゃないか!そんなのユートピアでもなんでもない!なんだよ、ABCマシンって、ASってなんなんだよ!」
「それでも今ASに入れられた夢を見ている人たちは、そんなことを知らずに、本人にとって幸せな夢を見ているんだ。それでいいんじゃないのか?」
「いやだ!僕は夢を見ない!ここに残る。現実に残る!」
「でも、ここには誰もいないぞ。君の場合もともと友達はいなかったようだが、それに加えて両親もいない。この学校にはもう誰も登校しない。それでもいいなら私は止めない」
 え?……お母さんも行っちゃったの?お父さんはもともとROUの人だったけど、お母さんまで僕を置いて行っちゃったの?……そんなわけない!
「まだ決めかねているようだな。これを持って、かえって自分の目で確かめるがいいさ。もう学校に用はないだろう?送っていってあげよう」

 島田は男に流されるままに『コーリンフラワー』を受け取り黒い車に乗せられた。
「君の家は……ここだな?」
 車のカーナビを見せられ、無言でうなずいた。
 車の中はにはカーナビの音声だけが響いていた。カーナビ通りに男が車を進めると、島田の家に着いた。
「あの、送ってくれてありがとうございます……」
「いや、とんでもない。さっきは声を荒げてしまってすまなかった。私もああいうことが言いたかったわけではないのだ」
「え?それってどういう意味ですか?」
「……それは自分で考えるんだ。―ところで君の名前は?」
「島田、島田 想です。あなたは?」
「私か。……そうだな、Aとでも名乗っておこう。それから、さっきの『コーリンフラワー』だが、秘密を知ってしまった今、使うか使わないかは君次第だ。では」
 男は、Aはそう言って車に乗って行ってしまった。
 島田は、家の前で独り残された。
「僕は、どうすればいいんだろう?」
 誰もいない家の前で、島田はぽつんとそんなことを言った。
 島田は静かにドアを開けた。
 家の中はシンと静まり返っている。普段、日中は主婦である母親が家にいて、BGM代わりのテレビの音がしているのに、今日はその音がしない。
「お母さん?いないのー?」
 そう言いながら、廊下からリビングへと進んでいく。

 やっぱり、いない……。どこに行っちゃったんだろう?

 島田は何をするでもなくテーブルの椅子を引き、そこに座った。ふと目線を机の上に合わせると、そこには見覚えのあるものがあった。
「あれ?これって、鉢植え?……コーリンフラワーの?」
 その瞬間、島田はガタンと席を立ち、寝室へ走った。

 いない!寝室も、書斎も、キッチンも、トイレも、風呂も、全部見たけどいない!お母さんもコーリンフラワーを使って行っちゃったの?
 そんな、僕は……、僕にどうしろって言うんだ!

 島田はそのままバタンとソファに倒れこんだ。島田がもらったコーリンフラワーは、母親が使った花の鉢植えの隣に置かれたまま、甘い香りを出し続けた。

 数日後、島田はいまだにソファにいた。ソファの周りには食器や包装紙、缶詰やコップが置いてある。あれからずっと、家から出ずに中で過ごしていたのだ。つい昨日、家にあった食料がなくなってしまい、これからどうしようか考えあぐねている。

 ああ、おなかがすいたなぁ。動きたくない。お母さんは、いつ帰ってくるのかな。お父さんはどうしているんだろう。
 僕は何をすればいいの?冷蔵庫のものもなくなったし、だからと言って外に買い物にも行きたくない。そうしなければ食べ物が手に入らないってわかってるけど、でも、誰もいないこの世界で僕が生きていく意味、あるのかな……?そもそも誰にも―父さんと母さんを除けば―必要とされてなかったのに。最初から僕がいる意味なんてなかったのかもしれないなぁ。
 ああ、天井が白い。今まではこんなこと考えもしなかったのになぁ、僕はいつからこんな卑屈な人間になってしまったんだろうか?
 ……あの夢を、ユートピアを見てからかもしれない。そうだ、あの花のせいで!なんで僕がこんなに悲しい気持ちにならなくちゃいけないんだ!
 たしかに、あそこでの僕へのみんなの扱い、全体の雰囲気、とても素晴らしかった。あそこがユートピアだと知らされていなかったら、何とかしてもう一度行こうとしたかもしれない。それぐらいよかった。……そりゃあ、僕の理想だから当たり前か。
 でも、あそこでのみんなの正しさは僕に刺さって、どうしようもなかった。今まで見えなかった自分の汚い部分、自分が一番正しいと思ってしまう傲慢さ、全部見えた気がする。怖かった。僕が夢から、ユートピアから出てきてしまったのは、これが原因なのかもしれない。出てきた、というよりも追い出されたという方が正しいのだろう。追い出したのは、きっと自分で作った理想なんだろうな。自分が自分で作ったものに負けるなんて、惨めだなぁ。
 でもここにもずっとはいられない、と思う。たしか、ROUって日本の人はほとんどみんな何かしらで関わってるから、みんなユートピアへ、ABCだか、ASとかいうわけわかんない機械を使って、夢の世界に行っちゃうんだろうな。ああ、Aさんにもっと詳しく聞いておけばよかった。
 でも、自力で生きていく気力のない僕が、これから生き延びることができるとは到底思えないな。ここには誰もいないから、誰も助けてくれない。もともと僕なんかを助けてくれる人もいないから、その点では変わっていないんだけどね。
 まあ、夢の中のユートピアへ行くよりかは、あるべき姿の僕っていう感じがして、だったらここに残るべきなのかなぁ、なんて思ったり。残っても、食べ物がない時点で、僕は死んじゃうんだけどね。僕が僕のまま死ぬっていうのは、まあ正しいことなのかもしれない。いっそのこと、このまま餓死してしまおうか。
 あ、でも……もう、母さんとは、会えないのか。ROU関係者の父さんは、忙しくて僕とあまり話さなかったけど、母さんは違った。ほかの誰とも違った。僕の話を聞いてくれた。顔と顔を合わせて、心と心を通わせて僕の話を聞いてくれた。母親なんだから当たり前じゃないか、と思うこともあったが、他に誰もいない僕にとっては、唯一の存在だった。
 母さんはいつだって正しかった。そんな母さんがいるから、「僕も正しい人間だ!」なんて思っていたこともあった。自分の汚さを見せつけられた今となっては、恥ずかしい思い出だが、母さんだけは今も変わらず正しい人間だ。
 そんな母さんでさえ「コーリンフラワー」に手を出してしまった。母さんも行ってしまった。現実の僕を置いて、夢の、正しい僕のほうへ行ってしまった。いや、母さんの夢には僕が出てこない可能性だってある。僕にとって母さんは唯一の存在だったけど、母さんにとって僕は……どんな存在だったんだろう?―母さんの僕へのふるまいが、あくまで「息子」に対するものだったら?母さんにとって僕がどうでもいい存在だったら?
 危ない。現実に来てまで卑屈になってどうするんだ。僕にとって母さんは絶対だったし、母さんもきっとそうだった。それでいいじゃないか。ああ、そんなことよりも、早く母さんに会いたいなぁ。本当に母さんはユートピアへ行っちゃったのかな。そうだ、鉢を見れば何かわかるかもしれない。
 よいしょ、ああ、床が汚いな。たしか鉢はテーブルの上に……。
 ああ、あった。花がついていない、使用済みの鉢。でも、この鉢に、なにか甘い香りが残っているような……?あ、こっちからもっと強いにおいが。
 あ。これだ。僕がこの前Aさんにもらった花だ。こんなに匂いが強いのか。でも、いい匂いだなあ。――この前、学校で見たのよりもちょっと大きいかも。重量感もあるし。大人用なのかな?
 あれ?視界が……ぼやけて、ふわふわする?真っ白……。この感じ、なんだか前にも、あったような……わかんないや。ああ、元に戻った。めまいか何かだったのかな?
 あ、母さん!母さんがいる!よかった、帰ってきたんだ!
「想、こっちにいらっしゃーい!」
「はーい、お母さん!戻ってきてくれたんだね!」
母さんが伸ばす手に、僕は……。

Epilogue 

 使うか使わないかは君次第。
 この言葉は数か月前に、ROUの上司に私が言われた言葉でもあり、数日前に私が『島田』という少年にかけた言葉でもある。その島田少年は、ROUが開発した花形の機械、コーリンフラワーを使ってもなお、この現実に戻ってきてしまったのである。科学的にその原因は解明できない。らしい。だが、私にはわかる気がする。
 私が数か月前に、ROUのユートピアに関する計画を上司から伝えられた時、私も島田少年と同じようにコーリンフラワーの魅せる夢に違和感を覚え、島田少年と同じように上司に歯向かった。そんな内向的な計画で人間に未来はあるのか、魅せられた夢で送る人生は倫理的にどうなのか、と。
 私は以前、ある同僚とこの問題について話し合った。
「――この世界に残るほんのわずかな物好きと、本当に楽しい生活を送れると思っているのか、A?自分が望む世界で生きていけるなら、俺はこれ以上は望まないさ。」
 誰とこの話をしても、結果、帰ってくるのはこの答えだけだった。このときは、議論が平行線をたどり、そのままなんとなく話は流れてしまった。
 そうそう、私がこの間島田少年に話したコーリンフラワーだが、実はあの話には続きがある。というよりも訂正する点がある。これも上司に聞いた話だ。
 島田少年には、コーリンフラワーが人を眠らせた後、夢を見せる機械ASにつないで身体の世話をする、という風に話をした。しかし実際には。眠らせた身体を世話するわけではない。その身体の感情ごとAS(Artificial Synapse)に移してしまうのだ。感情、つまり心はABCマシン(Artificial Brai Conversion machine)を使い一つのデータにされる。機械は大掛かりだが、これなら一生大衆の世話をするよりも、はるかに少ないコストに抑えられる。大きな組織が大衆のために大きなお金を使うはずがないのだ。ASの中でデータ化された人は、その中で生活していく。データになってもデータの元の人間は、ASの中で息をし、ASの中で腹をすかせ、ASの中で人と出会い、そして繁栄していく。らしい。その人の行動は、すべてその人の望み通り。結婚するタイミングも子供ができるタイミングも、死ぬタイミングも、すべてその人が無意識に思った通りになるというのだ。ASに意識を移された人間は、まあ、処分されてしまう。その身体は生きているかもしれないが、心は別のところに行ってしまうのだから、生かしておいても仕方がないということだ。
 ROU関係者も各自の仕事が終わり次第、自分でASの中に入るらしい。私も人を運ぶ仕事が終わったら、入るように指示は受けている。だが私は入らないつもりだ。同僚と意見を交わした時から、私の意思は固まっている。
 と、ROUとコーリンフラワーについて一通りのことを話したわけだ。
 柄でもないな、私が独り言を言うなんて。
 こんなことを話し始めたのには、わけがあるんだ。そう、島田少年に私が渡したコーリンフラワーからサインが発せられたのだ。コーリンフラワーにはGPSの機能が搭載されていて、どこでコーリンフラワーを使っても、使用後にはそこからサインが送られてくるのだ。
 私は島田少年と数十分しか言葉を交わさなかったが、彼と私の考えがどこか似ていると感じていた。彼ならあそこまで言っても、この世界に残ってくれるだろうと、勝手に思っていた。しかしどうだ。彼はあっけなくコーリンフラワーを使ってしまったではないか。がっかりだよ。
 やあ、やっと島田少年の家についたよ。彼の体を車に乗せて本部まで運んだら、私はこの仕事からようやく解放されるのだな。長かった。
 島田少年は……テーブルに座っているのか。ひどく痩せてしまっているなぁ。食事をろくにとらなかったのだろうか。かわいそうに。まあ、これで私の仕事は終わる。さっさと車に乗せてしまおう。
「……お母さん!」
 ん?寝言か?体はボロボロなのに、こんなに幸せそうな顔をするなんて。コーリンフラワーは、実に恐ろしいものだな。
 ああそうか。コーリンとは、『呼び寄せる』ものではなく『落ちていく』ものだったんだな。

Fin.

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