挫折から得た座右の銘:「鶏口となるも牛後となるなかれ」(後編)
話が長くなってしまったので、前編と後編に分けました。
今回は後編になります。
地元のサッカークラブでの経験を思い出す
私は小学校高学年から中学校卒業までの間、地元のサッカークラブに所属していました。地元の中学校は8校ありましたが、そのうちサッカー部があるのは2校だけです。しっかりサッカーを続けたい人はその2校へ、私のようなどうしてもというわけではない人は近場の中学校へ進学しました。私の小学校でも2人ほど、サッカーをやるためにサッカー部のある遠方の中学校に入学する子がいました。
近場の中学校はサッカー部がなかったため、基礎体力をつけるために陸上部に入部しました。サッカーの方はというと、週に一回地元のサッカークラブに通い練習をしていました。地元のサッカークラブは人数が11~12人で、何とかサッカーができるぎりぎりの人数だったので、中学1年生の頃からほとんどの試合に出場することができました。
毎日練習しているわけではありませんでしたが、試合経験が豊富だったことからサッカー部のある中学校と対戦してもぼろ負けするようなことはありませんでした。むしろ、地元のサッカー部のある2校には負けるどころか勝つこともありました。同じ小学校だった子はなかなか試合に出場することができず、対戦した際も週一回の練習の私のプレーと遜色はなかったように思えます。
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前述のサッカーの話ではサッカー部のある学校に進学して毎日サッカーを練習した人たちと、地元のサッカークラブに通って週一回の練習ですが試合にたくさん出場した私の対比でした。
私は地元のサッカークラブを選んだおかげで、試合に出場するという機会を多く得ることができました。きっとサッカー部のある中学校に進学していたら試合出場の機会はもっと少なかったはずです。
身の丈のあった集団を選ぶ
ここで再び高専の話に戻りますが、高専2年を終えた私は私はサッカークラブの経験を思い出していました。高専に進学したことは自分の身の丈に合わない選択であったのだと。身の丈に合わない集団に所属して今にもそこから転げ落ちそうな自分を何度も想像しました。
そして、次の人生の選択では身の丈に合った集団に所属しようという方針もここで初めて建てました。これがいわゆる「鶏口となるも牛後となるなかれ」を座右の銘にした瞬間です。
大学編入、そして就職へ
高専5年生になり再び進路選択の季節がやってきました。私はやりたい研究があったため、その研究ができる大学を2校に絞っていました。一方は偏差値も高めの首都圏の国立大学、もう一方は偏差値は中くらいの地方の国立大学です。
大学卒業後の就職まで見据えると偏差値高めの首都圏の大学の方がネームバリューがありそうですが、ここで私は過去の反省を活かし地方の大学に編入志望することを決めました。偏差値高めの首都圏の大学の方は、仮に編入できたとしても高専入学当初のように勉強についていけなくなるというイメージが浮かんだからです。
地方の大学には学校推薦で合格し、無事に3年次編入することができました。学部での授業は高専の授業の復習のようなものであり、学部時代はトップレベルの成績を修めることができたので、ここは計画通りというところです。
大学院に進み研究を進める傍ら、ついに就職活動の季節がやってきました。ここで再び座右の銘:「鶏口となるも牛後となるなかれ」に従い、大企業ではなくその子会社への就職を目指すことに決めました。大企業に仮に就職できたとしても旧帝大の強者揃いの中で活躍できる未来が想像できなかったからです。
就活については別の記事でも触れたので割愛しますが、無事に計画通りの企業に就職することができました。
就職後も周りと比べて引けを取るような場面は少なく、割と自分の描いた通りに社会人生活を歩んでこれたと思っています。
以上が、私が座右の銘を「鶏口となるも牛後となるなかれ」にした理由とそのエピソードです。
長い文章をお読みいただきありがとうございました。
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