装うことで自分が完成する。例え誰にも会わなくとも未完の自分でいることは「何かが足りない」

日経COMEMOのこの記事が目に止まって(というか心に止まって)、若干躊躇しながらも初めて投稿してみようと思った。コロナ禍で在宅ワークの時間が増えたことや、会議や打ち合わせがリモート化されたことで、このところよく耳にするこの手のテーマ。けれども私の中ではもう少し以前からこのテーマと向き合ってきた。

私は東京と宮崎を拠点に、いわゆる「デュアルライフ」をもう2年半以上続けている。宮崎では「新富町」という人口16,000人ちょっとの田舎町で一人暮らしをしながら、地域おこし協力隊として地域貢献活動を細々やっている。町役場の関連企業がオフィスになっていることもあり、周りで働く人たちは作業着か、通称かめポロという、地元で有名なウミガメのキャラクターが背中に書かれた公式ポロシャツを着て仕事をしている。制服というわけではないのに、なぜか、かめポロ率が異常に高い。そんな町で東京と同じようなオフィスファッションは当然浮くし、まるでコスプレでもしているかのような目で見られることもよくあった。

この町でおしゃれをする意味はないのだろうか

そんなことを考えて、宮崎ではデニムとカットソーくらいのカジュアルなものを揃えるようにした。ヒールはほとんど履かなくなったし、それまで持ってすらいなかったスニーカーが定番となった。初めの頃はそれも新鮮だったけど、だんだん自分が廃れていくようで少しずつ嫌な気分になっていった。

「ぜんぜん、楽しくない」

1年くらい頑張ってみたものの、自分自身を楽しめていないと思うようになり、町のスタンダードに合わせることをやめた。町の在り方がどうのこうのというわけではなく、私には私の「装い方」があって、それは過去の経験や環境、見てきたものから作られたものだから、町の人の感性と一致するはずはないのだ。私は私なりの装いがないと、精神的に自分らしくいられないことがよくわかった。それが私なりの結論だった。

そのスタンスは、今の「会えない時代」にも共通していて、私が装う基準は環境ではなく自分自身の「在り方」。例え上半身しか映らなくても、例え大人数の会議で小さな枠にしか映らなくても、装っていてはじめて「自分」なのだから、そこは変えようとは思わない。それは、テーブルクロスが長くて脚が見えないから履いている靴を放り投げてもいいか。お客様には玄関までしか見えないからオフィス内やリビングは片付けなくてもいいか。どうせ中身まで読まないから資料は冒頭だけ整えておけばいいや。きっと上司が気づかないからさぼってもいいや。そんな風に考えていることと同じなんじゃないか、と私は思う。

「装う」とは自分自身を成すこと。だから、会えない時代であろうが私は装うんです。


#日経COMEMO #会えない時代になぜ装う

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