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三千世界への旅 縄文25 天武天皇と海の民

壬申の乱と大海人側の勝利


前回は白村江の敗戦から、中大兄皇子/天智天皇の唐に対する敵対的行動、天智の死について紹介しました。

そこから『日本書紀』の記事は、大友皇子・近江宮側の戦いの準備、危機を感じた大海人皇子の吉野脱出、不破関越えと美濃国での兵力集結、近江・奈良・吉備(今の岡山)などでの激戦、大海人側の勝利、天武天皇即位と続きます。

いわゆる壬申の乱です。

『日本書紀』の記述では、天智が病気で倒れた段階で、大海人を消そうという陰謀があったことをほのめかしたり、大友・近江側が戦いを仕掛けたりと、大海人はあくまで受け身でしかたなく受けて立ったという感じになっていますが、実際はどうでしょうか。

『日本書紀』は勝者になった大海人/天武の発令で編纂された歴史書ですから、彼の方から仕掛けたとしても、そうは書かないでしょう。

天智から後継者にならないかと持ちかけられても断り、出家して吉野に籠ったというあたりも、天武朝以後に仏教がオフィシャルな宗教になってからの価値観が時間をさかのぼって、ストーリーに反映されているような感じもします。


仏教路線への大転換


天武天皇になった大海人は、即位後に反唐路線を大転換して、国をあげて唐との交流を推進し、仏教を基盤に据えた国家経営を始めます。

唐の首都をモデルにした藤原京や、薬師寺など仏教寺院の建設で、ヤマトは初めて中国の政治体制・文化・技術を本格的に取り入れました。この路線は奈良時代に受け継がれ、全国に国分寺が建立されて、地方行政も仏教を軸に行われるようになりました。

これによって倭・ヤマトはそれまでの豪族連合による統治から、当時のグローバル・スタンダードに沿った仕組みで国家・社会が運営されるようになり、日本という古代国家としての仕組みができたと言えるかもしれません。

聖徳太子や蘇我氏のいわゆる飛鳥時代にも仏教を基盤にした政治が試みられましたが、当時の中国王朝である隋と本格的な交流はできず、仏教もそれに関連する文化・技術も高句麗・百済など朝鮮半島から輸入されたものでした。

つまり東アジアの中でも、主に今の朝鮮半島の一部と関わるだけのローカルな国家だったわけです。

聖徳太子も中大兄皇子も、それぞれのやり方でそこから脱皮し、ヤマトを中国のスタンダードによる、当時としてはグローバルな国家にしようと試みたのですが、あまりうまくいきませんでした。

聖徳太子の一族が蘇我蝦夷・入鹿一族によって滅ぼされ、中大兄皇子がその蘇我一族を滅ぼしたということで、中大兄は聖徳太子路線の継承者だというイメージを抱く人もいるようですが、前に触れたように中大兄路線は、どちらかというと非仏教路線でした。


天武天皇と仏教路線


大海人/天武天皇も、和風の諡(おくり名=死後に贈られた名前)が「天渟中原瀛真人(あまぬなはらおきのまひと)」で、そこに入っている「真人」が中国古来の信仰である道教の道を極めた人の意味であることから、必ずしも仏教べったりの人ではなかったという見方もあります。

彼が推進したいわゆる藤原京・白鳳時代の仏教路線は、おそらく彼の政治信念というより、唐の圧力によるものだったのかもしれません。太平洋戦争に負けた日本が、それまでの軍国主義からアメリカ流の民主主義・資本主義に路線転換したようなものです。

『日本書紀』の天智天皇の病気から、唐・郭務悰使節団2,000人の筑紫来訪、天皇崩御、壬申の乱へと続くくだりを見ると、壬申の乱には唐の圧力や指示、もしかしたら軍事的な支援があり、乱の後も唐の圧力・指導・支援で、ヤマトの国家経営の大転換が行われたんじゃないかなという気がしてきます。

そう考えると、筑紫の郭務悰に天智天皇崩御を伝えに行ったという阿曇連稲敷(あずみのむらじいなしき)の役割も、単なる報告ではなく、壬申の乱突入への許可あるいは指示を仰いで大海人側にゴーサインを出すという、危険かつ重要なものだったのかもしれません。


天智天皇と大海人皇子のデリケートな関係


これまで何度も「大海人皇子」という人物について語ってきましたが、ここで改めて確認すると、彼は日本史の通説では中大兄皇子/天智天皇の弟ということになっています。そして『日本書紀』では天智天皇が即位したとき、皇太子に任命されていますから、彼はオフィシャルに認められた天智の後継者です。

しかし、天智は死の床に伏したとき、彼を呼んで皇位を継ぐ意思があるかわざわざ訊いています。

彼が皇太子だとしたら、これはおかしな話です。

このとき彼を呼びにきた蘇我臣安麻侶が「おことばに御用心なさいませ」と言ったので、大海人は何か危険な罠が待ち受けていると思い、皇位継承を辞退して出家すると天智に宣言し、天智はこれを許します。

これが事実なら、天智が天皇に即位し、大海人を皇太子に任命した4年前からそれまでの間に、天智が大海人を疑うようになる何かがあったことになります。

それは鎌足と同様、大海人が唐への敵対を続ける天智に批判的になったということだったのかもしれません。

あるいは大海人が密かに唐と通じていた可能性もあります。壬申の乱後に彼がとった親唐政策を見るかぎり、天智の疑いは正しかったという気もします。

『日本書紀』では大海人側の武装蜂起を正当化するために、そういう事実を隠して、天智の反唐路線が不人気だったことや、大海人が陰謀を仕掛けられたので、やむなく受けて立ち、壬申の乱が始まったという物語を前面に押し出しているのではないかと見ることができます。


大海人皇子の「海人」とは


ここから話はまた、海の民に戻ります。

前から僕が気になっているのは、大海人皇子(おおしあまのみこ)という名前です。

『日本書紀』には「幼時の名」として紹介されていますが、他に成人してからの名前は伝わっていないようです。

こういう名前には、何かいわれがありますが、この「大海人」の由来は何でしょう? 

中大兄皇子の中大兄は、大兄が長男なので、三人兄弟のうちの真ん中、次男という意味ですし、彼には「葛城」という名前もあったと言います。葛城は飛鳥時代の豪族の姓ですが、今の奈良県西部にあたる地域の名でもありますから、この地域と関わりがあったと考えられます。

では大海人皇子が「大海人」と呼ばれたのは、海や海の民と何か関係があったんでしょうか?

「幼時の名」と言う割に、『日本書紀』では、父の舒明天皇の巻に皇子・皇女を紹介する流れで、第三子として名前が出てくるだけで、彼の幼少期のことは書かれていません。

次に天武天皇自身の巻の冒頭に、天智天皇の同母弟として紹介され、「幼時の名を、大海人皇子と申し上げた」とありますが、幼少期についてはそれ以外語られていません。

続いて「天皇は、生来すぐれた資質があり、成人してからは武勇にたけ、天文・遁甲(占星術の一種)の才能もおありになった」と、大人になってからのプロフィールに移り、天智天皇の娘である鸕野皇女(うののひめみこ=後の持統天皇)を正妃としたこと、天智元年に東宮つまり皇太子になったことがごく簡単に語られています。

そこからは例の天智天皇に呼び出されて皇位継承の意思を問われるくだりになり、吉野隠棲、天智崩御、壬申の乱へと進んでいきます。

古代史上有名で偉大な天皇である大海人皇子/天武天皇は、意外と謎めいた人物なのです。

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