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三千世界への旅/アメリカ13



奴隷制度をめぐる対立


南北戦争


こうして内乱・内戦の危機を回避しながら領土的にも経済的にも急速に拡大を続けたアメリカでしたが、独立から80年くらい経って、ついに最初で最後の大規模な内戦を経験することになります。アメリカが北部と南部に分かれて戦った南北戦争です。争点はよく知られているように奴隷制度でした。

1860年の大統領選で、奴隷制度廃止を訴えるリンカーンが当選すると、翌年奴隷制維持を主張する南部のサウスカロライナ州など7州がアメリカ合衆国から離脱してアメリカ連合国を結成しました。

アメリカ合衆国は英語で言うとUnited States of Americaですが、アメリカ連合国はConfederate States of America。国旗は最近でも白人至上主義者、人種差別主義者のデモや集会でよく見られる赤いXに13の星を並べたデザインです。

合衆国は連合国を認めず、内戦が始まります。

内戦勃発後、バージニア州、ノースカロライナ州など4つの州が連合国に加わり、南部は11州になりました。さらに連合国はミズーリ州とケンタッキー州を加えて、13州にしようとしたようですが、この2州は連合国加入を拒絶したので、連合国旗の13の星は南部側の勝手な思い込みだったということになります。

内戦は1861年から65年まで続き、北部の勝利に終わりました。

北部の方が面積的にも人口的にも経済的にも軍事的にも規模が大きかったので当然の結果と言えるかもしれませんが、南部には優秀な将軍がいたので、軍事力や経済力が劣勢だったわりに北軍を苦しめ、善戦したとも言えるようです。



奴隷解放運動の歴史


南北戦争は、主に奴隷制に依存した農業で発展した南部と、奴隷制に依存せず、商工業も含めた産業によって、より大きな経済発展を遂げた北部との戦いだったわけですが、この対立は独立当初から、もっと言えば植民地時代からありました。

特に真面目で自分たちの考えが絶対的に正しいと考える清教徒たちのヤンキーダムは、早くから自分たちの土地で奴隷制を禁止しただけでなく、南部の奴隷州から逃げてくる奴隷たちを保護し、さらに南部の農園から奴隷たちが逃亡するのを助ける組織も結成していました。

『アメリカン・ネーションズ』によると、独立戦争の総司令官に就任したジョージ・ワシントンは、自分の配下にある北部の軍隊に黒人たち、解放された奴隷たちが参加していて、北部の白人たちが彼らをまったく差別していないことにショックを受けたと言います。

ワシントンはバージニア州の農園主で、サウスカロライナなどディープサウスの農園ほどではないにしろ、そこそこの数の奴隷を使っていましたから、北部の価値観とはかなり隔たりがあったわけです。

ちなみに南北戦争で南部の軍司令官を務め、優れた戦術で北軍を苦しめたロバート・E・リー将軍もバージニア州の出身で、ジョージ・ワシントンの義理の曾孫と結婚しています。彼の妻が相続したアーリントン荘は元々ワシントン家の農園でしたが、南北戦争後国に譲渡され、戦没者の墓地になりました。



曖昧な方針


奴隷制は独立前から長く、北部と南部を大きく分ける問題、争点でしたが、それをあまりはっきり主張し合うとアメリカが分断されてしまうので、独立後しばらくは大統領選でも議会選挙でも合衆国全体としての争点にならず、曖昧なまま時が過ぎました。

第三代大統領トーマス・ジェファーソンも、バージニアの奴隷を使う農園主でありながら、政治思想としては奴隷制反対、奴隷解放論者でした。

ただ、奴隷を解放するというのは、理念としては単純明快ですが、実際にはなかなか難しい問題を伴います。単純に奴隷を解放したとしても、農業の奴隷労働しか知らないわけですから、どこかで新しい職を得て暮らしていけるわけではありません。



解放がもたらす問題


彼らを自立させるにはそれなりの教育が必要です。そのための教育機関を設立し、教育者を確保しなければなりませんし、学んでいる間は収入が得られないわけですから、彼らを扶養しなければなりません。これは予算的にも制度的にもなかなか困難ですし、時間もかかります。

彼らが教育を受け、読み書きやなんらかの職業に就ける技能を身につけたとしても、彼らのために膨大な新しい仕事が必要になります。新しい職が作り出されないまま彼らに職を与えるとしたら、他の人たちから仕事を奪わなければなりません。これは大きな社会問題になります。

ジェファーソンは黒人たちをアフリカに送り返すという案に賛成していたようですが、これも実行するのは困難です。

ジェファーソンのような理想主義の白人は、アフリカ人を動物みたいに野蛮で下等な人種とみなしていましたから、アフリカの密林や原野に戻してやれば、保護された動物のように生き生きと暮らしていくだろうと考えていたようですが、現実にはそんなことはあり得ません。

彼らはアメリカの農園で奴隷労働だけ行って何代も経っているわけですから、密林やサバンナで狩猟や採集をして生きていくノウハウなど持っていません。



立ち消えになったアフリカ返送構想


そもそもアフリカの人々はそんな動物みたいな暮らしをしているわけではなく、狩猟や採集で生きていくにも、それなりの組織や部族や宗教的なつながりや複雑な技能が必要です。

さらに言えば、アフリカの北半分には当時すでに王国を形成している地域がいくつもありましたし、イスラム教なども入っていました。

奴隷としてアメリカに売られた人たちは、そうしたアフリカ内部の国家や部族の戦い、侵略や支配に敗れた人たちだったり、ヨーロッパ人相手に奴隷を供給するアフリカ人の組織に拉致されて奴隷として輸出された人たちだったりするわけです。

そんなところに解放された人たちを丸腰で放り込んだら、また戦いに負けてしまうでしょう。

ジェファーソンはこの奴隷をアフリカに送り返すという解決策を実行しませんでした。アフリカのこうした複雑さや、送還された人たちがどんな目に遭うかをリアルに考えたからなのかどうかはわかりません。ただ膨大な解放奴隷を船に乗せてアフリカに運ぶだけでも、費用的にあるいは手間の面でも難しいことは誰でもわかります。



中途半端な解放


もっと簡単な解決策としては、元々彼らを使役していた農園で、彼らに人間の尊厳に見合った待遇、つまり給料や住むところや行動の自由を与えるというのがありえますが、それでは膨大な数の奴隷をタダで酷使することで発展してきた南部の農業が成り立たなくなります。

奴隷解放論者からすると、成り立たなくて当然ですが、南部の農園主層はそんなことをしなければならないなら合衆国を離脱して自分たちの国を作るべきだと考えました。それが南部の連合国になり、南北戦争になったわけです。

こうして奴隷制の維持・廃止という経済・社会問題は、国を二分した内戦によって解決するしかなくなりました。戦争は5年も続き、多くの死傷者が出ました。

戦争は北部の勝利に終わりましたが、双方とも犠牲があまりに大きくなったために、終戦後北部は南部にあまり厳しい要求を突きつけることができず、奴隷制廃止、奴隷解放は中途半端になりました。



新たな貧困層の出現


奴隷だったアフリカ系アメリカ人は、基礎教養も技能もないまま放り出され、都市に流れ込み、不安定な低賃金労働で暮らしていくことになります。貧困は犯罪への誘惑になり、犯罪者および犯罪者予備軍としてのアフリカ系アメリカ人という類型ができあがります。

南部の元奴隷州では人種差別が公認の制度として20世紀まで残りました。一方、北部では黒人労働者が白人の貧困層と対立する存在になっていきます。

一方で、彼らに教育を授けるために、黒人向けの学校や大学が設立されるようになり、20世紀になると、アフリカ系の弁護士や医師、ビジネスマン、政治家などで成功する人たちも出てきました。後追い的ではありますが、それなりに奴隷解放の時点で取り組むべきだった問題への対応も進んだということになります。

しかし、そこで成功した黒人たちが得るのは、白人によって作られ、運営されている国家や社会、資本主義経済などの仕組みの中で、難しいゲームに勝ち続けることによって初めて獲得できる報酬です。

近代社会、資本主義経済が自由競争の仕組みによって運営されているかぎり、競争は格差や分断を生みます。人種差別解消の取り組みから生まれた黒人の成功者、エリートたちは、大多数の黒人から分離され、分断されます。

それは白人でもヒスパニック系でもアジア系でも同じですが、人種的に平等だからといって問題が解決されるわけではありません。

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