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三千世界への旅/アメリカ4

アメリカン・ネーションズ 始まりの歴史1

清教徒たちの新天地「ヤンキーダム」


メイフラワー号とピルグリムズ・ファーザー


16世紀末から17世紀初めにかけて、北米大陸にはイギリス人やフランス人の探検家や漁師が拠点をいくつか構築していましたが、一般的な日本人がまず思い浮かべる初期のアメリカ移民は、たぶん1620年にイギリスからメイフラワー号でやってきて、アメリカ東海岸の北西部、今のマサチューセッツ州プリマスあたりに入植したピューリタン、清教徒たちでしょう。

この一団はわずか100人くらいで、強い信仰心はあったものの、ただ新天地で自給自足の農業生活をするというくらいのプランしかなく、新大陸に対する知識も準備もおろそかだったので、最初の1年で半分くらいが栄養失調と病気で死んでしまったと言います。


組織的な植民地建設

次にマサチューセッツにやってきたのは、10年後の1630年、ジョン・ウインスロップを総督/リーダーとする約1000人の清教徒たちです。

ロデリック・ナッシュとグレゴリー・グレイヴズの『人物アメリカ史』の第二章「ジョン・ウインスロップ」によると、この頃までにはイギリスでは新大陸へ渡航するための調査や準備が組織的に進められていて、彼らはマサチューセッツ湾会社という会社組織の募集に応募して、この移民プロジェクトに参加した人たちでした。

彼らはプリマスの北西部60キロあたりに入植し、平等に土地を割り振られ、農業や商業などの経済活動をスタートさせ、清教徒の理想社会を建設していきました。必要な物資をイギリスから運んでくる会社があったので、植民地の開拓・拡大が物質的な不足で失敗する心配はなかったようです。この土地はボストンという都市へと発展していきます。


政治的対立と制度づくり

このマサチューセッツ植民地で面白いのは、小規模な集団だった頃からすでに政治的なもめごとや改革が始まっていることです。

最初のうち、この植民地はウインスロップを初めとするマサチューセッツ湾会社の株主たち8名の合議制で総督を選んでいました。移民たちは階級的に平等ではなかったわけです。

株主はフリーマンと呼ばれていました。要するに自由な市民とは出資者、資本家であるということです。これは古代ギリシャやローマで土地や馬、武器、奴隷などの資産を持ち、兵として軍事行動ができる資産家が自由民、市民だったというのと似ています。

17世紀初めの清教徒は神前の平等を説くはずのキリスト教の信者でしたが、組織としての実態はユダヤ教のモーセのような預言者たちに統率される寡頭制で運営されていました。

ところがマサチューセッツ到着後まもなく、この体制が揺らぎはじめます。

彼らの理念は、ただ新大陸に植民地を開拓することではなく、キリスト教徒としての理想郷をそこに創造することでした。新しい土地ではあらゆることが新しく、多くの問題が発生しましたが、その解決に古い知識や経験が役に立たないことも少なくありませんでした。

となると、リーダーたちの決定に反対意見を表明する人たちも出てきます。

結局、フリーマン=株主という定義が変更され、年季奉公人を除く成人男子の清教徒118人が選挙権を持つことになりました。その後も指導層と一般市民との確執は続き、1640年代には総会を二つに分けて二院制としたり、下院の採決に上院が拒否権を持ったりと、後のアメリカ合衆国の政治体制の基盤になる仕組みが生まれていきます。




ハーバード大学設立


もうひとつ興味深いのは、1639年つまりボストン開拓から10年経つか立たない時点で、郊外にハーバード大学が設立されたことです。これは彼ら清教徒たちが教育による知性・知識の育成をいかに重視していたかを物語っています。

こうした高等教育の整備は他の植民地でも行われ、アメリカに設立された大学の出身者たちが独立革命をリードしていくことになります。植民地の宗主国であるイギリスに知性や論理で対抗できる層が育っていたことが、アメリカ合衆国の誕生を可能にしたと言ってもいいでしょう。

やり手ビジネスマンの出現

この1639年にはもうひとつ面白いことが起きています。ロバート・ケインという貿易商が売値を不当に釣り上げていると告発され、植民地の総会に喚問されて罰金刑を受けたと『人物アメリカ史』は語っています。

有罪になったわけですし、ケイン自身総会で涙ながらに謝罪したと言いますから、清教徒たちの理想郷建設という理念は揺らいでいないことになりますが、早くも自由なビジネスのパワーがアメリカで生まれつつあることを物語るエピソードとして記憶しておくに値すると思います。

謹厳実直で知的で理想主義的なマサチューセッツの清教徒たちは、その後も開拓を続け、東海岸北部から内陸へ進み、やがて五大湖周辺の地域まで広がることになります。このネーションをコリン・ウッダードは「ヤンキーダム」と呼んでいます。アメリカの商工業地帯に広がったことで、このネーションは19世紀アメリカの主導権を握り、アメリカ合衆国という国の性格をかなりの程度決定づけたようです。



オランダ人が創設した交易拠点「ニューネザーランド」


ニューアムステルダム」として生まれたニューヨーク

ボストンの南、今のニューヨーク市マンハッタン島に最初の植民地を開拓したのは、意外にもオランダ人でした。1624年、メイフラワー号の清教徒たちによるポーツマス入植から4年後のことです。オランダ人はマンハッタン島の南端に交易の拠点を築き、「ニューアムステルダム」と名づけました。

ニューアムステルダムがマサチューセッツ州のボストンと違う点は、オランダ人の目的が入植者たちによる植民地開拓と定住ではなく、最初からここを国際交易の拠点として発展させようしたことです。

先住民が運んでくるビーバーなど動物の毛皮や、布製品、木工品、バージニアから運ばれるタバコ、ニューイングランドの塩ダラ、イギリスなどヨーロッパから運ばれてくる商品などが、まずここで取り引きされ、ヨーロッパへ、あるいは北米の各植民地へ出荷されるようになりました。

多民族による交易都市

他の植民地が入植者たちの土地として発展したのに対し、ニューアムステルダムはオランダ西インド会社管轄の下、フランス語を話すワロン(今のベルギーのフランス語圏)人、ポーランドや北欧出身のルター派、アイルランドやポルトガル出身のカトリック教徒、ニューイングランドのイギリス国教会信徒や清教徒、クエーカー教徒など、様々なバックグラウンドを持つ人たちが混在していました。

ユダヤ人は北米大陸のほとんどの地域で立ち入りが禁止されていましたが、ニューアムステルダムでは居住して活動することが許されていました。これは本国オランダでアムステルダムがそうだったのと同様、この交易都市の自由な経済活動を可能にし、後に国際的な交易都市として発展するために重要な役割を果たしたとウッダードは言います。

40年後の1664年に、ニューアムステルダムはイギリスに征服され、ニューヨークになるのですが、その後も多様性を許容する自由な風土は残り、国際交易都市として発展を続けることになります。

領土は消えてもネーションは残る

オランダ人による植民地はなくなりましたが、ニューヨークの北あたりには今もオランダ人が多く暮らす町がいくつもあります。

コリン・ウッダードは今のニューヨーク市あたりを、アメリカン・ネーションズのひとつとして、オランダ人によるネーション「ニューネザーランド」を設定しています。

「ヤンキーダム」など、他の植民地、ネーションズに比べると、実質的には胡散無償してしまって、無きに等しいと言えるかもしれませんが、歴史的に果たした役割と今に至るまでアメリカに与え続けている影響の重要性から、ひとつのネーションとして取り上げるに値すると考えているのでしょう。

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