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大人ってこの世に存在するんだろうか


え、突然なに?というタイトルで失礼します。

大人って、この世に存在するんだろうか。

そう思ったことはありませんか?


大人とは、いったいなんだろう。

大人って、なんなんでしょう。


goo国語辞典によると、『大人』とは

一人前の人間として、思慮分別があり、社会的な責任を負えること。また、その人。

おとな 大人の解説 goo国語辞典より


とあります。たしかに、なるほどと思います。

“思慮分別”、“社会的な責任”、大人のニオイがぷんぷんします。

“社会的な責任”なんか、いまいち意味がピンと来なくて検索してしまいました。


ただ、私は

この世に、完全な大人なんていないのではないだろうか

そう思っています。


大人は大人なのではなく、

“ただ子どものときと同じようなわがままを言えなくなり、またそれが許されなくなった人”

それが“大人”なのではないか。

私はそう思ってしまいます。

おかしいでしょうか。

大人なんてこの世に存在しない。

この世に存在するのは、自分も含め、

子どもか、子どものころのようにわがままが言えなくなったり、許されなくなったりした人

ただそれだけ。

皮肉でしょうか。


けれど、虐待のニュースなどを見るたびに、思うのです。

大人が子どもを虐待しているのではなくて、

子どもが子どもを虐待しているのだと。

もちろん、“親”として、“大人”として、虐待はあってはならないことです。

ただ、“親“なのに、“大人“なのにという視点でそういった問題をとらえてしまうと、

永遠にその問題の背景にあるものが理解されずに、同じようなことがくりかえされてしまう気がするのです。


私は姉が亡くなってから、姉の子どもたちと同居をしてきました。

幼稚園生だった彼らも、今では立派な高校生になりました。

また、これまで仕事で児童福祉の現場に携わってきました。

そこで、たくさんの子どもたちとふれあってきました。


そんな中で、つくづく思うのが

ときに、子どもって大人よりも大人なんだなぁ、

ということです。


大人になると、プライドとか見栄とか、なんだか気がつかないうちに勝手に背負い込んでしまうものがあります。

子どもはそういうものがないぶん、ピュアで純粋で、ときに大人よりも柔軟で寛容に物事をとらえることができます。

ピュアで純粋であるがゆえに、ものすごい残酷になることもありますが、逆に、大人の想像力をはるか超えた先までいくこともあります。


子どもを前にすると、

自分のメンツやプライドを守るためにやっきになってしまっている、器の小さい自分に気づくことがあります。


そういうときの自分は、確実に子どもよりも子どもだなぁと思います。

むしろ、“子ども”と表現することすら間違っている気さえします。


よく、“子どもを叩いてしまった、自分は親失格だ”と反省している親の声をネットで見かけます。

言うことを聞かないわが子に、すさまじい怒りを覚えてしまったという人もいます。

私は結婚したことがないし、子どもも産んだことがありませんが、

その気持ちは痛いほどわかるのです。

なぜなら、

子どもの光は強すぎて、ときとして自分の中の隠しておきたい闇をあぶり出してしまうのです。

自分が“大人”として、いかに無能で、無力で、非力で頼りなく、未熟な存在かというのを、

これでもかというくらい、コテンパンに思い知らされるからです。

大人は、子どもなのです。

ただ、わがままが言えなくなった、わがままを言うことが許されなくなった子どもでしかないのです。

だから、基本的にはガマンしたり、譲ったり、耐えたり、他の人を守ったり、支えたりして、自分を犠牲にするんです。

それが、“思慮分別”になり、“社会的な責任を負えること”なのかもしれません。


けれど、

わがままを言えなくなった子どもは、社会の中でどうやって生きていけばいいのでしょう。

わがままを言っても許されない子どもは、どうすればいいのでしょう。

わがままを聞いてくれる人を探すか、
わがままを言いたいのをガマンして生きていくしかありません。

わがままを聞いてくれる人は、いっけん優しいかもしれません。

そこで、平等で思いやりのある関係が築ければいいのですが、

どちらか一方が依存的だったり支配的な関係だったりすると、

それは、家庭内暴力や機能不全家族を生み出すことにつながってしまいます。

また、

そこまでいかなくても、ダダをこねて言うことを聞かないわが子に、イラッとしたり、ムカッとするのは

ほとんどすべての親が経験しているのではないでしょうか。


そういったことに対する理解が、社会的に欠けている気がするのです。

だから、“大人”なのに子どもに怒ってしまった…と、懺悔する親の声が、この世にたくさんあふれているのではないか。

もちろん、子どもを感情的に叱りつけてしまうのはよくないことです。

けれど、子育てで感情的にならない模範的な親なんて、この世に本当に存在するのでしょうか。


わたしたちは、大人だからって、大人じゃない。

18歳になったから、20歳になったから、社会人になったからといって、

自動的に大人になれるわけではありません。


これまで偉そうなことを書いてきている私も、

30過ぎて実家暮らしの無職の状態なので、

そんな立場から言えることは、本当は何もないのかもしれません。

お前こそ大人じゃないじゃないか、と言われたら、何の返す言葉もありません。


ただ、私が言いたいのは、

もっと“大人”に対して、寛容な世の中になってもいいんじゃないかということなのです。

それは裏を返せば、大人として、大人の権力を振りかざして、偉そうにしている人がたくさんいるということなのかもしれません。

大人がいないと、社会がまわらないじゃないか、という意見もあるかもしれません。

けれど、そういう人ほど大人なのかな?と、私は思ってしまいます。

本当に思慮分別があるのなら、そんな風にはふるまわないんじゃないの?と、思ってしまうのです。


大人でいられないことは、恥ずかしいことじゃありません。

大人だって、間違いをするし、失敗をします。

警官だって教師だって政治家だって、逮捕されるこの世の中です。

これらは極端な例ですが、例えば大人の世界だって、いじめはあります。

大人の世界にいじめがあるから、子どもの世界のいじめがなくならないのだ、と

昔テレビで、美輪明宏さんが言っていたような気がします。


もっと大人に対して、優しい社会であるべきではないか。

これは、大人であることの責任から逃れたいとか、責任を全うしたくないということではなく、

大人であることを変に固定し定義し縛ってしまうことで、

かえって息苦しさを生み出してしまってはいませんか?ということが言いたいのです。

そんな大人でいることって、つらくないですか?しんどくないですか?と。

もっと、大人でいることを楽しめることも、あると思うのです。


例えば、子どものときにできなかったことを、大人になってからする。

子どものときはわかちあえなかった人の苦しみを理解したり

子どものときは思いつかなかった発想で人助けをしたり

子どものときは表現できなかった気持ちを表現したり。

こうしてnoteに好き勝手に、“大人は子どもだ!”と書くことも、ある意味大人のだいご味かもしれません。



私は子どもの絵を見るのが好きなのですが、このnoteを書いていて、ピカソの名言を思い出しました。

そうです、“子どものころのような絵を描くには、一生涯かかった”というあれです。


子どもは、尊いのです。


ただ、子どもだった大人は、それと同じくらい尊いはずなのです。


それを否定されている社会では、生きづらいはずです。生きにくいはずです。


有名な童謡「ぞうさん」を作詞した、まど・みちおさんという方がいます。

私は個人的に、まどさんが書く詩はどれも、子どもだったころの感性を凝縮させた詩だと思うのです。

まどさんこそ、“大人”を素敵に表現していたと思います。

日常のちょっとした気づきへの純粋な驚きだったり、

自然や生き物たちへの心からの敬意だったり、

子どもでも大人でもとらえられない感覚が、まどさんの詩にはみずみずしく表現されています。

そういう人を目指していきたいな、と私は思うのです。

そういう人たちをみんなで目指していこうよ!と、思うのです。

そうやって、あなたの日常の中の子どもの部分が、もっと尊重されて認められるようになれば、

もっと生きやすい、暮らしやすい世の中になるんじゃないかと思うんです。


そうなれば、私がぱっと思いつく大人の定義も、

“ただ子どものときと同じようなわがままを言えなくなり、またそれが許されなくなった人”

ではなく

“子どものときの感性を忘れないまま、優しい気持ちで人や物に接することができる人”

“大人になっても、他の人に思いやりをもちながら自分の人生を楽しんで歩んでいける人”

になるのではないかと思うのです。



長くなってしまいました…。

ここまでお付き合いいただいた方で、もしもこの記事を読んで、

大人でいることの窮屈さから、少しでも解放された気分になってもらえたら、

“大人のはしくれの身”として、とても嬉しいです😊



◆おまけ◆

さいごに、まど・みちおさんの詩をご紹介。

『アリ』

アリを見ると
アリに たいして
なんとなく
もうしわけ ありません
みたいなことに なる

いのちの 大きさは
だれだって
おんなじなのに
こっちは そのいれものだけが
こんなに
ばかでかくって…

まど・みちお全詩集より引用


『おとうさん』

ばんごはんの時
お酒のまわったおとうさんが言った
―ばかだなあ 道子は
 ピーマンをうんとたべたら
 美人になれるんだぞ

いやいや ピーマンをたべていた
私の口から
こだまが はねかえった
―おりこうね おとうさんは
 お酒をちゃんとやめたら
 胃が痛いのが なおるのよ

花火になって ぱっとあがった
おかあさんの大笑い
花火の下で おとうさんは
首をふりふり
でたらめなにわぶしを始めだした
―ピーマンが かちでえ
 酒が まけえ

まど・みちお全詩集より引用


『いてもよさそうな』

「日がしずむ」というかわりに
「日がるぼの」という人はいないか
「るぼの」は「のぼる」のはんたいで
つまり「しずむ」

「夜はくらい」は
「夜はいるかあ」で
「年よりのヘビが タンポポ山ではねた」は
「いかわヘビが タンポポ山でたきお」だ

ひろい地球の
いや ひろい宇宙のどこやらに
いても よさそうな気がしてならない

はんたいに いうことで
その意味を はんたいにするような
そんな ことばを
使いこなしている生きものたちが…

まど・みちお全詩集より引用




“大人”になったあなたには、この世界はどう見えていますか?



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