不安障害は心のSOSだった
不安障害を患って、もう5年以上たちます。
私が悩まされているのは、外に出ると
人前で異様に手が震えたり
汗を大量にかいたり
顔が赤くなったり
自分のニオイが異様に気になったり
お腹を壊したり
してしまうことです。
電車や飛行機のなかで、パニックになってしまったこともあります。
厚生労働省のホームページによると
不安障害には
パニック障害
社会不安障害(社交不安障害)
強迫性障害
全般性不安障害
などとあります。
私はこの中でも、パニック障害と社交不安障害に該当します。
ちなみに、クリニックや病院には通っていません。すべて自己診断です。
最近、自分なりに奮闘し、完全では無いものの克服しつつあるなと思う一方で、
なぜ不安障害になってしまったのか思いをめぐらしたときに、
改めて実感したことがあります。
それは、不安障害は“心のSOSだった”ということ。
不安障害は、人から嘲笑されたり、嫌われたり、バカにされるような“恥”や“汚点”として忌み嫌うべきものではなく、
“自分が発しているSOS”から来ていた現象だったのです。
“いい子”でいないといけない。
“普通”でいないといけない。
そんな長年の“圧政”にたえかねて、身体が暴徒化した。
それが、私の不安障害でした。
治療ですが、
姉のこともあって、病院で薬をもらうことにはなんとも抵抗があり、
数年ほど前に、ある本を買いました。
それが、こちら。
ここには、そんな“圧政”のことが、こう表現されています。
そして、その心理をこうひもといています。
そしてその「やさしさ」は、以下のような自虐的信念から生まれると書かれています。
この本の購入当初、“怒りへの恐怖”と“対立への恐怖”にマーカーを引きましたが、
今読み返すと、最後のエモトフォビアの説明を読んだとき、急に胸がつまったような息苦しさを覚えました。
同じようにこの文章を読んで息苦しさを覚えた方は、きっと今までにつらい経験をされた方だと思います。
では、“カーペットの下に隠した感情”はどうなるのか。
この無意識下で“間接的に表出”されるものが、不安障害でした。
あがり症のバイブルである『あがり症は治さなくていい』にも、こうあります。
私はこれまで、
自分の中の不安障害の部分だけをきりとって、
いけないことだ、悪いことだ、恥ずかしいことだ、
と思ってきました。
“不安障害さえなければ、普通でいられたのに。”
そんな風に考えて、自分の不安障害をとことん憎んできたし、嫌ってきたし、差別してきました。
しかし、それでは不安障害からは逃れられません。
そんな否定や拒絶がかえって、不安障害を加速させていくのです。
不安障害は心のSOSであり、自分らしく生きるための重要なヒントをくれるものでした。
不安障害は、自分の信用や価値をおとしめるものではなく、自分を救ってくれるものだったのです。
私の“真正な感情に伴う恐怖”とは、いったいなんだろうか。
それと向き合うのはなかなかヘビーな作業になりそうですが、
その先には必ず光があります。
『不安もパニックも、さようなら 不安障害の認知行動療法』には、
不安障害を克服したとき、
と書かれています。
おそらく、それだけ“真正な感情に伴う恐怖”に向き合うことが、
普遍的な気づきや救いをもたらすことなのだと思います。
不安障害でお悩みの方に、参考にしていただけたら幸いです🍀
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